Ani ha nani wo siteiru


 執務室の分厚いドアには兄の字で「休業」と書かれた札が引っ掛けられている。 分厚いドアは引いたら簡単に開いた。鍵も掛けずに無用心な事だ。 サガの熱も大抵じゃないのだろうか。兄も鍵を掛け忘れるような人ではない。
 ざあ、と生ぬるい風が俺の前髪を吹き上げた。蝉の声がすぐそこに聞こえる…窓まで開いている。
 書類が風に吹かれて床に散乱していた。 拾い上げて、端のサインを確かめる。今日の日付で、サガ、と書かれていた。 サガの字には少しだけ癖がある。兄さんはこんな書き慣れた字を書かない。
 時計は1時と少しを指している。つい前まで、仕事していたのかもしれなかった。
 あの人がここを早退して寝込むなんて余程のことだ。 まず熱を出すことが珍しい。珍しいというよりも、正直、出していても判らない。 サガは普段から表情にあまり変化がないし、暑くても寒くても顔色に出さなかった。
 具合が悪かろうが何だろうが人の前では綺麗に微笑んでいるような人だ。 サガの表情のない笑顔を思い出す。あの顔から体調不良を読み取るのは難しいと思う。サガから言い出さない限りは。
 あの人が自分から不調を言い出すだろうか。俺には想像がつかなかった。 兄から気付いてやらなければずっと我慢している気がする。ずっと我慢していたのかもしれない。 だからこんな、兄さんが慌てて連絡を寄越すまで悪くしたのだろう。
 サガがすごい熱を出した、早退して具合を看ている、用事を頼んでもいいか、そんな事を言われた。
 …兄さんまでサガに付き合って早退することはないだろうに。
 サガは大人だ。一々世話を看た子供じゃない。自分で熱を下げることくらい出来る筈だ。 そうでなくても兄はサガに甘い。理由は知らない。サガは苦しくないのだろうか。兄は何もなかったような顔でサガの側にいる。
 そんな意趣返しをするほど兄は性格が悪くない。だが、自分がしたいだけで優しくするほど馬鹿な人でもない。
 実兄ながら時々よく判らなくなる。兄には昔からそういうところがあった。 サガが苦しいのかどうかは判らない。サガの表情は俺には読めない。判ったところでどうしようもないとも思う。
 頼まれた書類を探し、窓とドアに施錠する。 この暑さでは中の気温が凄いことになりそうだ、と少し思った。 飲みさしのコーヒーが置いてあった気がした。…が、又戻るのも面倒だったのでそのまま教皇宮を出た。
 長い廊下も蒸している。石造りなだけ、幾らかましなのかもしれない。
 外に出ると太陽が中天でギラギラとしていた。俺は目を細めて人馬宮へと降っていった。 こんな暑さの中で熱を出したら、どうなるのだろうか。 もっと暑くなるのだろうか。それともいっそ寒く感じるのだろうか。
 今のサガの体温は、気温よりもきっと高いのだろうと思った。


「兄さん」
 人馬宮は静まり返っていた。蝉がぱたりと鳴きやんでいる。私室への薄暗い通路は、外より少しだけ涼しい。 呼びかけて、リビングを覗く。兄の姿はなかった。
 廊下の片隅に二人の外履があった。放り出されたように転がっている…サガの靴まで。
 双児宮まで送っていかずに、ここで、具合を看ている?
 よく判らなかった。てっきり双児宮まで送っていったのだと思っていた。
 奥に人の気配がした。
 (客間)
 気配がする。何か話しているような、言い聞かせているような、そんな。
 転がっているのは兄と、サガの靴だ。
俺は気配のするほうに向かう。右手にある風呂場のドアが開いていた。蛇口から水滴が、たん、たん、と落ちている。 人馬宮は静まり返っている。こんな音が響くくらいに。 客間のドアもやっぱり薄く開いていた。…手をかけると軋んだような音がし、それが、開くのを躊躇わせた。



 薄暗い室内で、白いものが動いた。
サガが、シーツに顔を埋めている。顔の前でシーツを握りしめた手が、関節を白く浮かせている。 体を横にして、膝をひっ抱えるような姿勢で、掛け布の間から白い太股や膝を覗かせて、息を殺している。
 サガのすらりとした太股の向こうで兄が屈みこんでいた。
 息が止まる。カーテンの閉められた室内で、場違いな肉の白さだけがチリチリと脳裏に焼きつく。
 何故、サガは下に何もつけていないのだろう。何故、兄は、サガの、頭を、裸の腰を撫でているのだろう。 片手を、サガの尻の辺りにやっているのだろう。
 金色の髪が揺れた。噛み殺した息と一緒に小さく声が漏れる。 聞いたことのない声だった。熱のある時のサガを俺は知らない。
 いつもの低い落ち着いた声ではない、咽喉の端から零れ落ちたような掠れた声に、掠れて後を引く高い声に、兄が微笑む。
 その兄の微笑が俺の混乱に一層の拍車を掛けた。
 兄は、兄は何をしている? サガはもう子供ではない。座薬なんか一人でいれられるじゃないか。
 サガはどうして、兄に、そんな事をさせている? 真っ白い尻を見せて、声を殺して、顔を隠して。
 見てはいけないものを見ている。
 掠れた声がもう一度聞こえた。
 手、洗ってくるから。と兄が言う。優しく微笑んでいる。
 ふ、と顔を上げた。目が合った。
 蒸し暑い室内の空気が俺を包む。兄は俺を見ても微笑んでいる。
 


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