095 ごめんなさい
腕を伸ばした。
私の転がる煎餅布団と障子までには大人の歩幅で5つもあって、どんなに指を伸ばしたって届く筈もない。
ごめん、とアイオリアが謝る。 これに退ける気がない限り幾ら私が腕を伸ばしたって障子は開かない。
六感が最近努めて鈍い。仏の思召も聞こえなければ明日の天気も判らなくなった。
ほんの少し前の私なら、障子を開けずともまるで造作なく向こうの景色が見えたのだ。 それが今では体の何処を使っても出来よう気がしない。
諦めて伸ばした腕をアイオリアの背に回す。
最中の上の空はいつもの事だった。アイオリアは上の空の私に謝る。
くだらなくなって半年前の事をぼんやり思い出そうとした。
二十と四時間が、三十と、六つと、何時間遡ろうと雪は降っていたし、アイオリアは私に謝っている。
謝りながら、大して反応もしない私の体のここそこを、飽きるでもなく、撫で回している。
ごめん、ごめん、もうやめにしよう、もうやめに、ごめん、
ごめん、本当は、こんなこと、シャカ、
こんなことを二十と四時間と三十と六つも繰り返している私の体はやっぱりどうにも反応が悪い。
ごめん、ごめん、もうやめにしよう、ごめん、本当に、
アイオリアの本当は幾つあるのだろうか。
やめにするのはどうだっていい。私にしてみたら、はじまりも判らないのだから。
背中を持ち上げるように、アイオリアの腕が滑りこんで、私の長い髪を二つに分ける。 そのまま持ち上げて頬に当てた。唇を押し当てる。
お前の口付けのようなものだ、アイオリアよ。
何も判らぬ。停滞している。 やめにしようといいながらお前は私に口付けるが、 その唇の形も、吐息も、目で見えぬ舌の動きすら思い描けるほど、私はお前の口付けを知っているが、 その全てが、髪に口付けられたようだ。
アイオリアの伏せられた目の、その、はしばみ色の睫の一つ一つ、細かに震えているような、 そんな小さな漣み一つ、判らぬのだ。
お前も教えてくれぬ。私も考える気がない。



腕を引かれて、起きるよう促される。
大分寝転がっていたので頭がぐらぐらした。眩むと言うより、気が何処か違う場所に落ちていくような感覚に眉を少し顰める。
堂の端隅に置いた蝋燭と、本尊に灯す蝋燭と、明り取りの窓と、何にしても堂は暗い。 こう暗くては目が回ったとて左右も判らぬ。それが嫌で私は片手を布団についた。布団では足りず視界がぐらつく。
指が痛くなるほど敷布を握り締めてもぐらつきは暫くやまなかった。 目は開けていた。開けていないとよく見えなくなった。
ごめんと謝りながら私の背中を抱きとめるアイオリアの意図は、目を開けていても依然皆目判らぬ。
(恐ろしいのは、判らぬ判らぬと繰り返す内に、昔は、判っていたような気になるところだ。)
片手で私の頬を撫で、顎を掴み、持ち上げ、謝り、その親指を私の口の中へ滑らした。
私はごつごつしたそれを飴玉のように根元までしゃぶる。
残りの指で顎を掴まれていては唇自体が満足に使えない。アイオリアはこういう制限を好む。
爪が口蓋に当たって痛い。指を伸ばされると咽喉が押されてえずいた。蛙のような声が咽喉の深い所から捻りだされる。
根元に歯を立ててしまいそうで遮二無二舌下に絡め取った。唾液を飲み込めないが、口蓋をえぐられるよりはいい。
半ば開いたままの動かせない唇でもがく。辛い。唾液が行き場なく零れて垂れ落ちた。
アイオリアはこういう小細工を好む反面、制限されて苦しい私を愉しむといった事はしない。
寧ろ辛いのは俺だとばかりに沈痛な声で謝り続ける。
愉しくないから謝っているのだろうか。ならば、この惨めな私の姿は一体何なのだろう。
その手指が背や腰を這い回る意味は判らぬが、口に突っ込まれた指が中指か人差し指かは判るようになった。
然しお前の肩や腹を撫でれば、お前は、もう止めよう、と言う。
お前の指に舌を絡ませて舐めあげれば、ごめん、と言う。
その度に私は鼻で笑いたいような、泣きたいような、そんな気分になる。
もういいよ、と、アイオリアが沈痛な声で私の唇から指を抜いた。
項垂れて首を左右に振る。唇の端に垂れた唾液を親指で拭う。馬鹿なのは私やもしれぬ。



アイオリアの、肩の辺りの、隆起した筋肉が影を作っている。
私はそこに手を伸ばす。もう止めよう、そう言いながらアイオリアは覆い被さってくる。
アイオリアの浮き出た鎖骨に歯を立てる。アイオリアは私の首の後ろに唇で跡をつけていく。
止めよう、兄さん。ごめん。ごめん、ごめんなさい、
アイオリアはきっと泣きそうな顔をしている。
私は泣きたくても体がどうにも反応してくれない。




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