046 やってしまった
周りが言う程綺麗って訳じゃない、とアイオロスは思っていた。
双子座の聖闘士さまは美しい方だ、優美だ、と村の老人や娘は散々に言うが、 アイオロスはそれを耳にする度に噂の優美の人を頭に浮かべ、 帰って来てはその優美の人の、噂になる優美とやらをまじまじと確かめてしまう。
確かにサガは品の良い顔立ちをしていたし、仕草は落ち着いていたし、 髪を耳にかけたり、ちょっと物を書こうとペンの蓋を取る一々の指の動きなんてそれはもう躾けられたように柔らかいものだったが、 だからと言ってその動作をしげしげ眺めたいと思うことはないし、 例えばサガがちょっと笑ってこちらを向いても、別にいつものとおりの(いつものとおりの、品の良い顔立ちの)サガであって それに美しい!とか、生ける全ての苦渋を救う微笑みだ!とか、そんなオオゲサな感想は一切出てこない。 アイオロスの両眼にはいつものとおりの、外面良いサガの色々取り繕った笑みにしか見えないのだ。
昔はこんな顔じゃなかった、と言うと村人は驚いた顔をする。 それで、決まって、もっと美しかったのですか、とややトンチンカンな事を口にする。
彼らの頭の中では只でさえ美しい優美の人サガの子供時分とあっては、 その優美というか神性に多分、純粋さがプラスされて 何かそれはもう、きっと天上界からの使いのようなものであるに違いなしと思っているに違いないんだろうな、と、 アイオロスは思う。
サガは一体何をしたのだろうか。何をどう振舞えば、一人の人どころでない数の人をここまで盲目に出来るのだろうか。
思い切り不機嫌な表情で頼まれ事を聞いている顔や、 髪をガシガシかきあげながら刺々しく愚痴をこぼしている姿、 その髪をかきあげた手についたインクの跡とか、腕まくりして皺だらけになったシャツ、 思い出せない、ええいもう歳だ、と散らかった机上を叩きつけるように掻き分けて物を探す様子、 疲れてくると人の名前と顔を覚えようとしない悪い癖、ぶっきらぼうになる声、大口を開けて寝に落ちる間の抜けた顔、 そんなあれこれは自分の見た幻だって言うのだろうか。



その日は問題なく日が暮れた。
今夜はゆっくり風呂に入れる、と言ってペンの蓋をぱちんと閉めたサガはそれを丁寧にペン立てに戻す。
こういう時のサガは確かに優美で柔和だった。 夕飯はどうすると言って微笑む表情も柔和そのものだった。
アイオリアに言わせれば少し老けて疲れた表情になったそうだが、確かに、優美で麗しい。
しかしアイオロスには人々の言う程の衝撃ある優美にはどうしても見えない。 目を凝らすまでもなくいつものサガなのだ。気分のいい時の、外面を作る余裕のある時のサガの微笑みなのだ。
もっと違った。もっと綺麗に笑った。優美とかでない、もっと綺麗な顔で笑った。
自分は余裕のない時のサガを知っているから、それが素のサガだと思っているから、 あまりに様子の違う優美なサガというものを、偽者のサガだと頭から疑ってしまっているのだろうか。
アイオロスはふとそう思い、それはそれでひどく嫌な気になった。 皆が言うサガの優美を自分はインクの染み一つで見落としているのかもしれない。
自分の知らぬサガの優美、神性というもの、麗しさ、如何にかして見てみたかった。
ペガサスの持ってきた日本の酒があって、と言いながら瓶の形を片手で示す。
アイオロスの右腕が積まれた書類の角を軽く掠り、一枚がするりと宙に浮いた。 おっと、と伸ばした手をすり抜けて床に落ちる。 拾おうとアイオロスが屈む前に、サガが拾った。
屈み、手を伸ばす。片手で髪が落ちるのを抑える。ひょいと拾って、サガはそれをアイオロスに手渡した。
「どうぞ」



その瞬間、サガはアイオロスの茶色の瞳に一瞬の事、自分の姿がネガのように焼きつくのを見た、という。
渡された書類を受け取り、元の場所に戻し、そのまま自分の口元を覆った。 己が眼に映ったものを反芻するように無言で瞬きを繰り返すアイオロスの目はきらきらと星の輝きを宿している。
己が眼にきらきらと焼きつくネガと、サガを見比べ、口元をもう一度握り締めるように覆った。 上気した頬が更に赤くなる。きらきらのネガが潤んでぼやける。
アイオロスは突然走り出した。驚いて名を呼ぶサガの声も聞こえない。教皇宮から一目散に走り出た。
アイオロスの脳裏に色々なサガがきらきらと巡る。走る足も地から浮いているようで力が入らない。
思い切り不機嫌な表情で頼まれ事を聞いている顔。
髪をガシガシかきあげながらトゲトゲと愚痴をこぼしている姿。
その髪をかきあげた腕についたインクの跡とか、腕まくりして皺だらけになったシャツ。
思い出せない、ええいもう歳だ、と散らかった机上を叩きつけるように掻き分けて物を探す様子。
疲れてくると人の名前と顔を覚えようとしない悪い癖、ぶっきらぼうになる声、大口を開けて寝に落ちる間の抜けた顔。
ぱしっと音を立てて紙の束を渡してくれる時の、口に出さない「任せた」の表情。
七時に起きるぞ、という時の筋関節の軋みまで聞こえてきそうな声。
半ば寝息交じりの起こせ、の呟き。ソファに投げ出された手足と散らばって鈍く光る金色の髪。
子供のひそひそ話を聞こうと屈んで耳を寄せる時の優しい表情。
誰かを叱る時の腕組。誰かを許す時の零れるような笑顔。
全部が全部サガじゃないか。あの微笑みはサガじゃないか。
こんなところにいたのか。あの綺麗なサガはこんなところにいたんじゃないか!



私は、私は、どうしてしまったっていうんだ!!
勢い脚をもつらせながら駆け逃げたアイオロスの顔は幸せにまみれていて、ひょっとしなくても幸せそのものだった。
神の幸福に触れるを許されたように。ハタマタ、至上の奇蹟にでも巡りあえたかのように。





















取り残されたサガは一人教皇宮を降りながら、先のアイオロスの豹変を思い返す。
思い返しても自分は何かアイオロスが逃げ出すような事をした気がしない。
紙を拾って、渡しただけでないか。自分の背後に何か居たとでもいうのか。
それとも彼はもしかして、自分に逃げ出したくなるような何かを見たのか。
しかし、しかし、とサガは絶望に似た悪い想像を追い払うように小さく首を振った。
しかし、あれは私の中にはもう居ないし、私の心もあれに二度もつけこまれる程弱くはない。 第一アイオロスがあれを見たとして逃げ出す男だとは思えなかった。
サガはそれ以上考えないようにした。
悪い想像をしてはそれに囚われる。悪いほうに悪いほうに心が向かう。それに抗うように、もう一度首を振った。






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