腰巻
髪は腰で真っ直ぐに切り揃えられている。そして超の付く直毛である。
その背筋の正しさも又、超の付く一級品であった。
測ったような黄金比率を誇る四肢の構成、人と話す時には余り逸らすという事をしない目線、 座る様も喋る様もとにかく真っ直ぐで、人間の容姿的なものより 寧ろ構成美、建築美に近い印象を受ける。
見事な姿勢で歩く。絵画の様な角度で本を読む。
朝は早く夜も早く、三食偏りも好き嫌いもなくきちんと食べ、 清廉且つ慎ましく日々を送り、恙無く任務を果たし、 交友関係は広くなく、しかし浅くもなく、異性には誠実で決して浮ついた真似を取らない。
立居振舞は完璧であった。嫌味のないギリギリを自然にこなせる術を身に付けていた。
趣味は読書と聞く。若い世代を指導するのが生き甲斐とも聞いた。
歪みの無い容姿、歪みの無い生き様、とにかく歪みのない男である。
よく出来ている。寧ろ、満点に近く出来ている。


と、ついこの間まで、何の疑いもなくそう思っていた。
騙された訳ではない。俺は純粋に、これをよく知らなかったのだ。
この男は人が思っている以上に自分を判っていて、尚且つ狡猾で逞しい。そして少し変わっている。



紅茶が好きだった筈なのだが、どうもポットが見つからない。
珈琲で良いか、と声を掛けると嫌だ、と返事が返ってきた。
ならば俺だけ頂くとしよう。インスタントの珈琲の瓶は目立つ場所に置いてあった。
俺は知っている。これはよく飲むから目立つ場所に置いたのではなく 買うだけ買って手の届く所にひょいと置き、そのまま放置した結果だ。
ひっくり返せば瓶底には恐ろしい年号が彫られていた。
先日も頂いたので腹に無害な事は判っている。
あれは年号も確かめない食物を平気で客人に振舞う。悪気は無い。買った物を管理していないだけである。
珈琲瓶の下にフレーバーティーの缶があった。ひっくり返しても年号は書かれていない。
開けてみる勇気が出なかったのでそのまま元に戻した。
湯の沸き待ちをしていると勢いの良いくしゃみが聞こえた。
覗くと腰にタオルを一枚巻いただけの格好で本棚を前に座り込んでいる。
カミュ、と名を呼ぶと、びくりと飛び上がり、パタパタと頁を閉じた。
大方、探し物の途中で見つけた本に夢中になったのだろう。
それで、それを咎められたと思ったのだろう、急に甲斐甲斐しく本棚の整理を始めた。
見ていて面白いのだが、俺はそれを咎めたのではない。まず服を着ろと言いたかったのだ。


件の品が見つかったので日曜の10時に取りに来い、と、言った。
それで伺えばあれは入浴の真っ最中であった。
あれの風呂場はどうした発想か理解に苦しむが、リビングに在る。
頭に泡を乗せたままで片手を上げられても困るのだ。
カミュはどうして良いのか四方不明の俺を 奥で待っていてくれ、と顎で指した。両手は洗髪に使用中である。
そこのソファでも良いが、と、御許しを頂いたが丁重に御断りした。それは朝から観るショーではない。
指された奥には浴室と寝室があったのだが、 主のいない寝室に入るのも気が引けたので浴室前で待った。
普通は逆だ。主でも女でも友でも誰でもいいが、入浴中のそれを待つのが、大方リビングではないか?
色々と頭痛がする。
リビングに戻ればカミュは湯上りの格好のままで本棚を掻き回していた。
昨日、寝る前に此処に置いたと思ったのだが、と長い髪から滴る水滴を押えながら言う。
本を探すのに夢中で俺の事は大して意識に入っていないらしかった。
人事ながら書籍が湿気るので、浴室から取ってきたタオルを投げて寄越した。
拭け、と言うとあれは生返事で頷きながら頭に引っ掛けた。もうどうしようもない。
すまないが少々待っていてくれ、と言われたので待つ事にした。
少々で済むと思ったのだ。
それが半時掛かっても見つからない様子なので、 いい加減に待ち草臥れた俺は何か茶でも頂こうと台所に立ったのだった。


ポッドが見当たらない、と伝えると、やはり生返事が返ってきた。
この前より又少し粉っぽくなった気がする珈琲を呑みながら、 俺はもう一度浴室に戻ってタオルを取ってきた。
掛ける気がソファは水滴まみれだったからである。風呂上りによく体を拭かないまま腰掛けたのだろう。
あった、とカミュが言い、立ち上がり様に時計をちらりと見た。
あまりマイペースに振舞うからこういうものかと思っていたのだが、一応、気にはしていたのだ。
予定は何も入れていない、と言うと、申し訳無さそうな顔でちょっと肩を竦めた。
腰が痛い、と呟く。背筋を伸ばすとバキリと小気味良いがそれなりに嫌な音がした。
若くないとこぼしながら、カミュは肩を一度後ろにぐるりと回した。
お前でも節々が凝るのか、と訊くと、憮然とした声で冗談抜かせ、と返ってきた。
少なくとも見た目の骨格は凡そ狂いが無く、何処かの骨や関節が歪んでいるとか、 筋肉が攣っているとか、そういった不都合は見当たらない。見当たらないというか、似つかわしくない。
何を見ている、と言うので骨格を、と返した。
教科書か標本のようだ、と伝えると割りと気に入らない顔をし、 私はちゃんと、血が通っている、と言った。
これはどうもその手の発言には嫌悪を示す。


カミュはようやく見つかった布張りの本を片手に、隣にどっかと腰を掛けた。
組んだ脚はやはり長く、バランスが良い。
男の脚にこんな事を感じるのも気色の良くないものだが、性別を差っ引いても理想的な比率をしている。
頭に巻いていたタオルをソファの後ろに放り投げて、肩が凝る、と、首を左右に傾げた。
「私は本来、寝転がっているのが一番好きだ」
由って、それに最も適した骨格をしている、と言い放つ姿は成る程、確かに標本には求め得ない人らしさだ。
生乾きの髪をソファの背凭れに払って、カミュは目を閉じた。
「夜更かしが過ぎた。電話は、気持ちが良くていけない」
それは初めて聞いた意見だ。
あれは会話するものであって、気持ちが良いとか悪いとかそんな事は考えた事もない。
ミロは時折俺には見えないものを見ているようだが、 これもこれで俺には判らないものを感じているのだろう。
カミュは組んだ脚をそのままに腰を捻って横を向き、片腕を枕にした。寝に入るのは良いがやはり格好が良くない。
このままでは大凡風邪を引く。
第一にだ。相手が俺とは言え一応、人に会っているのだから下着くらい身に着けようとは思わないのか。
腰巻一枚でウロウロしている様を見ていると、 これが如何に自分のイメージを作るのに長けていたかがよく判る。
「本当は、早く起きようと思っていたのだ。10時に貴方が来るから、8時に起きて、それで身支度をして」
伏せていた目を少し開け、カミュは表情だけでちょっと笑った。
これは謝罪したい時に、よくこんな顔をする。
「風呂に入って、朝食を作って、ついでに貴方の好きなものでも見繕って、それで貸して頂いた物語の品評でもしようと」
「何処からが嘘か当てて差し上げるか」
くっく、とカミュは笑った。今更、俺相手に吐いた愛想美人でもないのだ。
これは朝に弱い。それでいて夜更かしが好きだ。
大方、と、俺は珈琲を呑み干して、空いたカップを弄んだ。
「見繕うのは自分だろう。俺仕様に」
「間に合わなくてすまなかった」
カミュは腕に顔を埋めてくすくす笑っている。
「貴方仕様は時間が掛かる。どれだけ皮を被れば良いのか、今となっては判らないのだ」


腹の上に抱えたままの本を奪おうか迷ったが、これ一冊でも幾らか防寒になるのかも知れぬ。
全くの腹丸出しより若干ましと言うものだ。ソファを拭いたタオルはあったが、掛けてやるにも湿っている。
しばらくカミュはそのままうとうとしていたが、突然思い出したように身を起こした。
「サガに会いに行くのだった」
そうしてすっくと立ち上がり、俺には何の一瞥もくれずにさっさと着替えに向かった。
因果なもので、その瞬間から、もう他所行きのカミュになっているのだ。
カミュにとってのサガは星、今も昔も変わらず憧れの先輩らしい。
俺程度では頓着は愚か寝坊も辞せず服すら着ない癖に、 憧れの人となっては指の爪十の先端、髪の先一本にまで気を遣う様、切り替えの速さ、 その極めて現金な様子がカミュらしくて良い、と、俺は思う。
扉を開けっ放して行ったのは独り言を聞かせる為だ。
「今日は何のお話をしてくれるのだろう?」
そんな事を、本当に嬉しそうに喋る。
これがサガの前に出れば忽ち他所行きの顔になって、御機嫌よう等と品良く会釈をするものだから、 俺は可笑しい以上に勿体無いと思ってしまうのだ。
これの本当の魅力はその変わり身の速さ、繕いの上手さにあるのであって、 変化前、変化後の両方を見せない事には面白味に欠けるのではないか?
俺も実際知らなかったのだ。


腰巻をぽいと放り投げてきた。適当に干しておいてくれと背中で言う。
ベランダ代わりの出窓には使用していない暖房の排気装置があった。
ふと見ればその上に食器籠が置いてあるではないか。自然乾燥にも程がある。
手すりはそれなりに磨いてあるようだった。
タオルを手すりに干し、籠からポットとティーカップを取り出す。
どうせ後で探すだろう。片してやっても良かったが、人の家の物をあまり弄るのも良くない。
それらを籠の中、目に付き易い場所に戻して、俺は宝瓶宮を後にした。


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