ジュテーム
ミロがひたすら笑っている。あれの笑い声はけらけらとしたもので、 軽く、とても明るく、然し、きらきらと言った形容のものではなく、よく耳に残る。
又しても口が滑った。止め、と言いかけて、ミロが未だ勢い良く笑う。
馬鹿だ、馬鹿だ、と連呼された。私は余程、馬鹿な事を言ったのだ。
こちらの耳が痛くなるくらい笑い続けているので、私は一旦、受話器を耳から離して枕に置いた。




呑み掛けのグラスはサイドテーブルにある筈だが、よく目が利かない。
上体を捻って思い切り伸ばせば、腕はきっと届くと思った。
就寝灯では暗過ぎる。伸ばして軽く振った爪の先がグラスに当たって透明な音を立てた。
ミロの笑い声はこれによく似ているが、やはり、少し違う。
うつ伏せになって、グラスを掴む。氷はとうに溶けていたので汗はかいていなかった。
汗かきグラスは嫌いだ。妙に損をした気になるのだ。
アルコールや香りが水滴となって飛んでしまったような、そんな気になる。
引っ掴んで(私の爪は長いので、勢いぶつけて転ばさないように気を遣うのだが、この時は全く気にしていなかった)
口元に運ぶ。距離が少し足りなくて唇から零れた。
顎を伝ってぽたぽたと落ちる。一部は更に咽喉を伝って鎖骨辺りまで垂れた。
零れて垂れているがグラスの中身は未だあった。
一気にあおるにも首がこれ以上伸びない。私は精一杯、首を反らした。
貰い物の酒だった。柑橘の香りが強い。香水を呑んでいるようだ。
他所の酒は余り呑まない。慣れない成分に体も幾分、戸惑っているように感じた。




反らした首を、やはり、垂れて落ちる。
髪に付かないかどうかだけをちょっと気にしたが、どうでも良くなった。どうせ明日の朝には洗う。
シーツに落ちた分も構わない。
寝巻きに着替えようとしていた矢先のコールだった。長くなりそうだったので、そのままの格好で寝台に寝転んだ。
その内、中途半端に纏わりつく衣類の鬱陶しさにいっそ裸で良いと放り投げ、シーツだけ引っ被った。
寝酒を入れた体は熱を孕んでいたし、素肌に巻き付けた寝具も嫌なので、これも明日纏めて洗う。
今は頭が薄ボンヤリと緩くなっていて、複雑な事とか細かい感触とかは殆ど気にならなかった。




ミロが私の名を呼んでいる。受話器を左肩と耳に挟んで、今度こそ、グラスを一気にあおった。
すまない、と断ろうとして、口が滑る。何を言ったのか判らないのだ。
ミロが笑うので、それでようやく滑らしたと判る。
不思議なことにミロの言は裁量良く伝わる。しかし、返す言葉が、どうもおかしい。
私は私の口が何を言っているのか、まるで把握を得なかった。
かなり呑んだ、とミロが言った。
私は首を振った。それで伝わると思ったのだ。又ミロが笑う。
呑んでる、判る、酔ってる、と言う。私は又、首を振る。
振ったはずみに、滑った。
ミロがひたすら笑う。私はその笑い声すら心地良かった。ミロの声は好きなのだ。
その事を伝えようと思って、もっと笑え、と言ったつもりだった。
ミロが笑う。やはり、私の口は滑っている。




きっと、と、ミロが言う。今の、カミュを見たい、と言う。
ロクな見世物ではない、と、私は思う。
きっとあったかい、それは、どういう意味なのだ。私は首を振った。ミロは笑っている。
きっと綺麗だ、私は唇の端に付いた髪を払った。返答に困る。私は少しだけ目を伏せた。
酔ってる、そうだ。酔っている。お前の話が長くて、随分と呑んだ。
名を何回か呼ばれた。だから、お前の声は好きなのだ。酔ってはいるが、未だ起きている。
こうして鼓膜をゆるゆると刺激されるのが、酷く心地良いだけだ。
適当に口が動いた。
が、私の感覚そのものは大凡聴覚に集中していて他は余り意識に上らない。


ミロ、と呼んだつもりだった。m、i、l、o、区切って、注意をかけて、口にした。
なあに、と優しい声が返ってくる。これの声は時折、優しい。
殊更、私が名を呼んだ時、ゆっくりと首を傾げるようにして、覗き込むようにして、優しい声を出す。
咽喉が勝手に音を出すに任せた。ミロが笑う。大笑いではなく、小さく、本当に小さく、笑う。
少し俯き加減に、口元だけで笑う、そんな様子を見た気がした。
もう一度、咽喉が震えるに任せた。
俺も、と、言ったのだろうか。ミロの声は小さくて、やはり優しかった。






そう言えば、今日は日曜ではないか!
飛び起きた時には既に10時の手前も手前で、焦る気になる前に、まず、時計を疑った。
次に目を疑ったが、寝起きと言えども私の眼は極めて、よく見えた。
枕元に転がっている受話器を投げるようにして本体に戻し、
グラスを引っ掴んで(そこで私の長い爪が勢い良く当たり、グラスが転げ落ちそうになって慌てた)寝室を飛び出る。
今日はシュラと約束があったのだ。
脚で寝室の扉を閉めようとして、私はハタと思い出した。シーツも洗おうと思っていたのではなかったか?
ともあれ、風呂に入らなくてはならない。私は、今日の8時には起きて、風呂に入るつもりだったのだ。
グラスをシンクに置くだけ置き、バスタオルを取りに浴室へ走る。


バスタブに湯を張りながら考える。私は朝に弱い。それが、目覚ましを掛け忘れるとは、一体どうしたと言うのだ?
昨夜を思い出そうとせども、薄らボンヤリと残留するのはミロのうるさい笑い声のみだった。
あれは全く何が愉快でひたすら馬鹿の様に笑っていたのか? それすら思い出せない。
シャワーノズルを捻った所で、驚いて思わず手が止まった。鼻歌を歌っていたのだ。
私は極めて上機嫌だった。
自身の機微さえ思い出せぬとは些か解せぬ。が、察するに、昨夜は余程、気持ちの良い眠り方をしたのではなかろうか?
思い返せば、唯一記憶に残るミロの笑い声も嫌な気分のするものではない。


頭を洗っているところでシュラが来た。申し訳ないが、今の私は上機嫌なので細かい事は気にならない。
シュラは奥で待つと言って引っ込んだ。シーツが気に掛かったが、私の居ない寝室に入る男ではない。
借りていた御本は確か、本棚に置いた筈だ。
出来るだけ早く風呂から上がって、シュラに一言謝らなければいけない。
こういう時に長い髪は面倒なのだ、と私は思った。



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