待合室
窓の外は暗い。暗いと判らぬ程暗い。
何時時分であるかも判らぬ暗さ、 時折ちかりと赤や青の光が走り、すぐに飲まれ、それでようやく暗いと判るような暗さ、 いずれにしても良く出来ているものだ、とデスマスクは思った。
窓枠に付いた水滴もよく出来ている。本物のようだ。
十字の窓枠は時折軋み、嵌め込みの硝子がキイキイと泣いた。
湿気が酷い。
木製の待合ベンチは大昔にやられたのだろう。それで、大昔に乾いたのだろう。
力を込めると撓ることなくそのまま割れると思った。
それで、彼は乱暴に座る事を避けた。
いい加減に待ち草臥れている。
吸い差しの煙草をストーブに放り込む。
それが燃え尽きるまで、彼はぼうと、ひたすらぼうと、赤い火を眺めた。
これも何時から燃えているのか判別が付かない。
やはり良く出来ているものだ、とデスマスクは思った。
煙草は切れることがない。これもよく出来ている。
安い柄シャツのポケットから手品の如く沸いて出てくる。
ライターの油も減る事がない。
これがジッポでも同じだったのだろうか、と、彼はぼんやり考えた。
祖父のジッポは確か二十歳くらいの時に何処かで落とした。そんな事を思い出した。


新しい煙草を取り出し、煙を吹かした。
窓はキイキイ泣いている。風が吹いている訳でもないのにキイキイ泣いている。
暗いとは光があって初めて成り立つのだろう。
此処では暗いと言うか、寧ろ何も無かった。
足許から掬われそうな無が何処までも広がっている。
紫にも見えたし、黒にも見えた。見ようと思えば赤にも緑にも見えるだろう。
先ほど通ったシュラは真っ白だと言っていた。
それはある意味で正しいように思えた。


デスマスクは煙草を咥えながら、天井を見上げた。
そこだけ硝子細工の白熱灯がゆらりと目を灼いた。
少しだけ目を細める。照明の細工は黒淵に切り硝子のシンプルなものだったが美しかった。
古びてはいたが造形が少しも崩れていない。
紫の差し色が時折点滅して見える。見える、だけで本当はしていないのかもしれない。
デスマスクは大きく煙を吸い、そして吹いた。
プラットホームから吹き込む風は何の匂いもしなかった。
線路の先は何処までも真っ暗で、その先から時折ざあと弱く吹き込む。
温く吹き抜ける風は待っているようにも誘っているようにも思えた。
その線路の先、先に何があるかは判っているつもりでいる。
明滅する列車のライトは心地良かった。
構内にわんわんと響く汽笛も心地良かった。もうそちらに行くべき人間なのだ。
シュラを見送った。カミュも行った。
しかし、自分を乗せる列車はまだ来ない。




ドアがのんびりと開いた。
いちいち振り向いて閉めるのは癖だ。
巻き毛の影から外の暗さが垣間見え、それでデスマスクは片手を上げた。
よう、と声を掛けると、何故君がいるのだ、と、アフロディーテは心底呆れたように、 しかしほんの少しだけ、嬉しそうに笑って悪態を付いた。
やはり君はだらだらしていて良くないな、と、笑う。久々に見た笑顔だった。
アフロディーテはドアを振り返るようにしながらデスマスクの隣に座った。
「暗かった。少し怖かった。あまりに、何も無いので」
「転ばなかったか」
「転びはしない。転んでも判らなかったと思う」
アフロディーテが来たのでデスマスクは煙草を消した。
「シュラが行った。カミュも。判っているとは思うが」
ああ、とアフロディーテは小さく頷いた。
「サガもじきに来る。と、思う。そんな気がする。気だが」
溜息をつきアフロディーテは指を組んだ。
「気だが…そうなって欲しい気もする」
呟いてアフロディーテはそのまま黙った。


ふと目を遣ると彼の傍らには一輪の薔薇が置かれている。
それに気付いたアフロディーテは摘んだり振ってみたり、投げる真似をしてみたり、 取りあえず一通り試してみた後、小首を傾げながら口元にやった。
「これも私に付いてきたのだろうか」
デスマスクはシャツのポケットを探った。
煙草とライターを取り出し軽く宙に放り投げ、受け止めてみせる。
「共にしたいものか、共に行きたいものかは俺にも判らん」
「君のそれは間違いなく共にしたいものだろう」
呆れたように呟き、アフロディーテは手を出した。
眉を顰めるデスマスクには構わず、ずいと手を出す。渡せ、ということだろう。
「どうせもう健康に害とかは」
「いいから寄越せ。君と煙草の組み合わせは良くない」
「渡しても沸いて出てくるが」
「沸くたびに寄越せ。千でも万でも構わない。寄越せ」
詰め寄り、シャツのポケットに手を掛ける。
覗き込んで、見上げた。笑う。その笑顔にデスマスクは既視感を覚えた。
ふ、と眩んだ気がした。懐かしさが鼻先に迫る。
子どもの頃、アフロディーテはよくこんな顔で笑った。
何時だったか。その笑顔が余りに綺麗で驚いた事があったのだ。
人の表情を眩しいと思ったのはそれが最初で最後だった。
何時しか見慣れてそんな感慨は欠片もなくなった。だが、それが突然、鮮烈に甦った。
匂いすら伴う。
アフロディーテはそのままデスマスクの肩に額を預け、凭れ込んだ。


煙草臭い、と笑う。
なら離れろと軽口を叩く気にはなれなかった。
アフロディーテは交換だ、と言った。
私の薔薇と、お前の煙草。交換しよう。そう、囁くように続ける。
肩口が震えた。
「ずっと」
ずっと何だ、と訊こうとして、デスマスクはそのまま黙った。
アフロディーテが軽く、首を振ったのだ。
二、三、駄々をこねるように振る。いいからそうさせてくれ、と言うように、振る。
肩口が熱かった。アフロディーテが息を吐いたのだ。
それで止めていたのだと気付いた。
「ずっと持っていろ。何処までも。判らなくなっても捨てるな」
私は、と続けようとして、アフロディーテは又大きく息を付いた。
もう一度、私は、と息を吐きながら言う。
「私は、君が判らなくなっても」
それ以上は続かなかった。笑おうとして、それも無理だった。
アフロディーテは泣いている。


「怖かった。余りに何も無いので。私もじきにそうなるのかと思うと、怖くて仕方がなかった」
何もかも忘れて無くなってしまうのだろう。君の事も忘れてしまうのだろう。
サガの事もシュラの事も聖域の事も13年間も、アイオロスも、母様も父様も、 昔遊んだ原っぱも聖闘士になった日も、晴れの日も雨の日も、暑さも寒さも、 悔しかった事も嬉しかった事も、君の煙草の匂いも、何もかも。
そこまで一気に呟いて、アフロディーテは鼻を啜った。
すまない、と首を振る。
体を離そうとしたので、デスマスクは咄嗟にその背を押さえた。そうした方が良いと思ったのだ。
このまま肩で泣かれた方が良い。
身を起こされては泣き顔を見てしまう。きっとそれは辛い、と思った。
私は、とアフロディーテは言った。吐き捨てるように続ける。
「死ぬのは怖くない。怖くなかった。肉体が滅びることは、これっぽっちも」
デスマスクの背に腕が回される。すんなりと伸び、そのままゆっくりと力が籠った。
背凭れから重心が逸れた。アフロディーテが力の向きに任せるがまま覆い被さってくる。
無茶な体勢で倒れ込んだ。ベンチが狭い。デスマスクは両腕をアフロディーテに回した。
ぴたりと重なった胸から一々規則正しい鼓動がダイレクトに伝わる。
これも良く出来ているが、皮肉だ、とデスマスクは思った。
木の匂いがした。しかしすぐに薔薇の香りで判らなくなる。
目を閉じる。巻き髪を指に絡ませる。
こんな扱いは女にもしたことがなかった。
アフロディーテが声を搾り出すように、泣いた。
「君が居るからだ。君が居るから、こんなに怖くなった。悲しくなった」




窓硝子がキイキイと泣いている。
人の体温はこんな時でも心地良いのか、とデスマスクは思った。
やはりよく出来ている。
案外、何処の世界も都合良く出来ているのだ。
君が居るからとお前は言うが、俺が此処に居たのも何かの都合だったのだろう。
デスマスクはそう言おうと思い、やはり柄でないな、と取り止めた。
天井の白熱灯がぼんやりと揺れている。硝子細工がゆらゆらと目を灼く。
そうして、目を閉じた。
最後に見たものが、あの硝子細工の照明なら、それでも良い。
指には巻き髪の感触がある。
アフロディーテが鼻を啜る。
思い切り肩口、鎖骨の辺りに目を擦りつけながら、喋る。
「それなりによく頑張った。アンドロメダは善い男だ。私は後悔していない」
そうだな、と呟くとアフロディーテは又鼻を啜り出した。
慰めるな。慰めるなら、もっといつもの君のようにしろ。皮肉を効かせろ。優しくするな。
そう言い、又何が悲しくなったのか鼻を啜り出す。
大方、喧嘩をした時の事でも思い出したのだろう。
デスマスクは指から巻き髪を解いた。再び絡ませるようにして頭を撫でる。
もっと喋れ、とアフロディーテが言う。
その声が体から体へ直接響く。ああ、と言ったデスマスクの声も反響して響いた。
心地良い、とアフロディーテが呟く。
どうしてこんな所でこんな事になっているのだ、と笑う。
つられてデスマスクも低く笑った。
よく出来ているのだな。
それだけ言い、アフロディーテは目を閉じた。










君は大層悪人だが、心底性根が腐った悪い男ではない。
アフロディーテはデッキから身を乗り出しながらそう言った。
「君は来世も蟹になる。いや、蟹を目指せ。私は魚座を目指すから」
笑顔でひらひらと手を振るその姿をデスマスクは薔薇を振って見送った。
列車はまだ来ない。
きっとサガも来るのだろう。俺の列車は恐らくその後だ。
デスマスクは一人ベンチに深く腰掛け、煙草に火を点けた。
ふう、と煙を吹かす。
此処は待合室のようだ、とデスマスクは一人、思った。


























































































「…という話なのだが誰も覚えていない。おかしいと思わないか」
ローズティーを啜りながらアフロディーテが不満そうに呟く。
あのな、とデスマスクが頭を抱えた。
「普通死んでる時の事なんて覚えてねえよ」
「いや、しかし、私は覚えている。しっかり覚えている。あの時の君は、私を」
ああ、ああ、それ以上いい、とデスマスクは手を振った。
そんな所あったの? とミロがカミュの袖を引っ張る。カミュは首を傾げた。
「記憶にない。シュラもないと思う」
大方夢でも見たんだろう、という事でこの話は終わった。
冗談じゃねえよ、とデスマスクがテーブルに突っ伏する。
耳まで隠したので彼が赤くなっている事は誰にも知られなかった。
冗談じゃねえ、ともう一度呟き、デスマスクは何事も無かったかのように顔を上げた。
そうしていつものように品の無い仕草で煙草を吹かすのであった。




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