第三の男
その男はしばしば鋭利であった。
その男が決断を下す瞬間、その時のみ、鋭利であった。
男は本来そういった作業が得意かどうかは自分でも皆目判らないところで、 振り返れば、子どもの頃の自分は鋭利というよりも何処か凡庸な少年であったように思うのだが、 それが15を数える頃には何時しか今の自分と寸分違わぬ鋭利さを持っていたように記憶し、 他、一切の記憶は古ぼけた廃屋のように虚ろで霞みがかっている。


不要なものが一つ一つ淘汰されて純化が進むように、 その鋭利だけが自分の全てであるように、 不思議な事だが、男はそんな過程に何の疑念も感じていなかった。
洗練というより何か落としつつ踏みつけつつ、 見失いつつ騙しつつ、或いは捨てつつ、 期待と状況、状況と期待、とにかく男が育った世界がそういう男を求めていたようで、 その積としての自分に疑問を抱く事は 自分を擁する世界そのものに疑問を抱くようで、 男はそれを得なかったのかもしれない。認め得なかったのかもしれない。
自分の行為、行動、特性、過去、強いては現在を築する足許全てを否定するには、男は余りに脆かったのだ。
男は、故、刃のようであった。研ぎ澄まされて、繊細に鋭利であった。




男は黒い目をしていた。そして黒い髪であった。
割りに色の薄い肌は夜道に不利であったのでいつも黒い外套を着ていた。
襟を立て、顔を見られぬよう、そして顔を見ぬよう、大抵伏し目がち俯きがちに暮らしていたので何時しかそんな癖がついた。
男は同僚達の顔もよく覚えていなかったのだ。
眼に浮かぶ同僚達はいつも笑顔である。然しそれはとうに過ぎ去った幼少の頃のものであり 笑顔は笑顔でも最近の笑顔はちっとも浮かばない。
男がよく見ていないのか、或いは、彼ら同僚が笑わなくなったのかは定かでなかった。
男は自分の顔もよく知らなかった。
鏡に向かう事はあっても、やはり男は見ようとしないので 見ても記憶に残らないのだった。




その夏の日は雨が降っていた。
止まず切れずの雨で音もなく降り続いていた。
雲間がしばしば赤く、或いは青く、光る。音はまだ無い。
男は窓辺で膝を抱えてすることもなく、只湿った空気に淀んだ室内で冊子が歪んでいくのを、ぼうと見ていた。
夕にもまだ間があるのに薄暗い。しかし、外は妙に白く明るい。
時間はひたすら緩慢に過ぎて行き、男は息をしているのかも曖昧に座っているだけであった。
かた、と何処かで何かが小さな音を立てる。
かちり、と時計の針が鳴く。
一日室内でそればかりを聞いていた男は、 ふ、と思い立って、浴室に向かった。そして、鏡を見た。




































「椿の花は判るか?」
俺の隣で膝を抱えていたミロが頷く。
「あのような感じだ。あれの、艶と色をなくしたような様でな。美しくなどない。只、悲壮で」
「男は吃驚した?」
「驚いた。死人が居ると思ったのだ。よく似ていた。男が今まで見てきた、それに」
うん、と、ミロが曖昧に頷き、膝に顔を埋め、もう一度、上げた。
これの記憶にも恐らく、似たような顔がある筈なのだ。
俺は脚を抱えていた腕を緩めた。ミロの髪がちかりと揺れ、それが視界の端に映る。
今日の雨も長い。
白く明るい雨はあの日とよく似ていた。それで、思い出してこんな話をしたのだ。
あの日と違うのは季節と俺の隣に居るミロ、そして俺の年齢くらいか。
怖い、とミロが言った。
怖がらせる気はなかった。だからと言って、どうする気があった訳でもない。
俺はどうしてこんな話をする気になったのだろう?
昔の事はあまり話したことがない。話すこともない。
どうと言うこともない。あの頃がなければ、今の俺も居ないのだ。


怖い、とミロが繰り返し、俺の首に触れ(それで、俺は振り返った)、そうと手を離し、もう一度、触れた。




















酷い顔色をしていた。白を通り越して青、それを通り越して、灰色だった。
白い雨が僅かな光を曲げ、ギラリと鏡面が揺れた。
雷が近い。
男はゆっくりと、声をあげた。
殊更ゆっくりと、聞こえぬくらいの大きさで、何故だ、と、呟いた。
そうと手を伸ばし鏡面に触れる。
灰色のそれに似合いの冷たさだ、と思った。
男の右手には樹木の様な形で静脈が浮き出ていた。
が、男のそれは本来の薄い青か緑を忘れ 蝋で出来た偽物の色をしている。
どくり、と、時折、脈打つのは何の愛嬌だろうか。
生命の色をしていないそれが生命を刻むのは滑稽そのものだった。


しかし例えば、と男は思った。
この俺が偽物ならば、本物は何処に居たのだ、と。
何時、本物は偽物とすり替わったのだ、と。
この右手が死んでいると言うならば、 本当の、俺の右手は何時生きていたのか、と。




男はその夜も仕事があった。
雨はやはり止まず、しかし不思議な事に、夜になっても辺りは白いままだった。
妙に霞んでいるような夜だったから、街灯の下でも躊躇しなかったのかもしれない。
瞬きもいらなかった。街灯の下ですれ違い、そう思ったか思わないかの時間だった。
重さなど感じない。
少し温いと感じるだけだった。体液の温さは後を引くが、それも慣れたものだった。
男は振り返らずに、足すら止めずに、そのまま、本当にすれ違い、通り過ぎて、その場を去った。
白い雨が上塗りを洗い流していく。
男が歩いた先には転々と赤い痕が残り、しばらくもすれば、それも、消えた。
男の右手は上塗りこそ赤かったものの形成色は灰色のままで、 きっと俺の顔もそうなのだろう、と男は思った。


振り返らずにその場を立ち去った。
振り返れば、真剣に考えてしまいそうだったのだ。
地べたに転がったそれと、自分の手を見比べて、何処が違うのだろう、と。




































男はその後どうなったの、とミロが呟いた。
死んだ、とだけ言うと、ミロは、うん、と、小さく言い、それきり黙った。
「死んだ。沢山の人を斬って、死んだ。思う所もあったのだろうが、死んだ」
死の間際に男は、と、俺は言いかけて、やめた。
これ以上喋り過ぎることもない。
ミロは俺の襟口や耳、首筋を何か目的が有るでもなく触り続けている。
これは気付いているのだろう。
それでも黙っているのは俺に対する気遣いか、それとも何らかの思惑か俺には判らなかったが、ミロは黙っている。
男が死の間際に思った事は、男だけのものだ。
それを、俺が喋ればおかしなことになる。
男が俺だとしても。
それを、ミロが気付いていたとしても。


男は何が欲しかったのかな、とミロは呟き、そのまま俺の返事を待たずに立ち上がった。
いい加減に時刻は夕に掛かろうとしている。
雨は未だ止まぬが幾分、弱くなっていた。
コートを羽織ったミロは再び、俺の横に座る。
夕になればカミュが迎えに来る約束だった。
「男は今頃生まれ変わったりしてるのかな」
コートのボタンを留めながら、ミロが言う。
落ちかかる髪もそのままにやるから手際が悪いのだ…よく視界がはっきりしないだろうに。
手伝ってやろうかと思ったが、それをしたらこれは怒る。
俺はそのまま考えるふりをして、ミロがいじくり倒した襟口の型を直した。
「生まれ変わって、何もかも忘れているのではないか。きっと」
聞いて、ミロが薄く笑う。
そうだね、と言った声色で、やはりこれは気付いているのだろう、と、俺は思った。




カミュが迎えに来た。
襟口は正した筈だが、俺の首筋をチラと見るので思わず触れてしまった。
やはり何も無いので、ふと怪訝な顔をしたのだろう。
カミュは視線を逸らして、愛想程度に少し笑った。
帰った後で俺は浴室の鏡を見てみた。やはり何もない。
相変わらず妙に白いだけだ。鏡に触れた手も何も変わってはいない。
今頃ミロは、今日の話をカミュにも伝えているのだろうか。
あれはあったことを本当にそのままカミュに話すものだから、しばしば在らぬ誤解を招くのだが、 しかし別段隠すようなこともしていないので、放っておいている。
俺は鏡に付いた指紋を消し、もう一度首筋をなぞり、そうして浴室を出た。






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