12月19日 シベリアにて。
「すぐに冷める」
カミュは紅茶を出しながら言った。
コートの襟を引っ掴み、その中に半ば顔を埋めていたミロはハア、と息をついた。
襟首の中に息を入れると暖かいのだ。ミロはそればかりを繰り返している。シベリアは寒い。
有難う、と言う代わりに目を細めた。ハア、と息を入れる。


カミュは暖炉に新しい薪をくべた。パチリと爆ぜる。
細かくなった灰が少し舞い、床と彼の膝に着いた。
立ち上がり、キュと足先で床に飛んだ灰を擦る。白く曇ったような汚れはもう一度で擦ると殆ど判らなくなった。
居間の隅に立てかけてある小さな黒板を思い出した。あれもしばらく掃除していない。
膝に着いた灰を指先で擦る。
衣類の汚れよりも指先に着いた灰の感触の方が嫌だったので、二、三、親指と擦り合わせた後、もう一度、太ももの辺りで強く擦った。
それで少し、気にならなくなった。
ミロがモソモソと何か言っている。洗えばいいのに、とか、そういう事だろう。
私は、とカミュは言いかけて止めた。どうせミロは知っている。判っていて言ったのだ。
カミュは水が手に纏わりつく感覚を嫌う。手だけではなく全身の何処でも嫌う。水だけでなく感触のあるもの全てを嫌う。


ミロは襟から顔を出していただきます、と頭を下げた。紅茶を啜る。
カミュも向かいに腰掛け、自分に紅茶を淹れた。此処では忽ち温度を奪われてしまう。紅茶もそうだった。
奪われた熱量を代償する様に大量のジャムを落とし、混ぜる。
甘いものは嫌いではなかった。これは内側から熱を生んでくれる。
ミロがハア、と又息をつく。吐息が白い。カミュは洗っていない黒板を又思い出した。
「シベリアは」
ミロが言いかけてジャムに手を伸ばした。見ていて自分も入れたくなったのだろう。
瓶の中身は赤かった。落としてそのまま混ぜる。
カミュは軽く眉を顰めた。
「その匙はそのまま使え」
「うん」
気にした様子も無くミロは紅茶を啜る。甘い、と目を瞬かせた。ジャムは相当煮詰めてある。
もう一度啜る。カップを少し口から離して、そのままの位置でミロは言いかけた言葉を続けた。
紅茶が飛ばぬように幾らか気を遣って、唇だけで話す。
「シベリアは寒いから好き」
カミュは冗談だと思って薄く笑った。
「お前は暖かい方が良いだろう。冬は嫌いでなかったのか」
「ギリシャの冬はあまり好きじゃない。けど、シベリアの寒さは好き」
青い瞳をすうと細め、伏せる直前で瞬きをする。
「あんまり寒いから、余計あったかい気がする」
何を言っているのだろう、とカミュは思った。ミロは時々言葉足らずに物事を伝える。
真意を量るのはいつもカミュの役目であったし、彼はミロに限りそれが不快でなかったので今回もそうしようとした。
が、もう少し意味を引き出そうと口を開きかけたカミュを遮るようにして、ミロは言った。
ゆっくりと単語一つ一つを切るように片言で呟く。
「赤いものやあったかいものがギリシャより綺麗に見えるよ」
紅茶とかジャムとか暖炉とか、赤いものが色々、と、続けて、それきりミロは喋らなくなった。言いたい事は全部言ったのだろう。
何だか眠たそうに瞼を伏せて紅茶をのんびり啜るだけになった。
カミュは指を擦る。その長い指、爪の先までも丁寧に手入れされている。それも又赤い。
視界の端に映り込む髪を肩の後ろに払った。遣り場に困ったのだ。
此処は、とカミュは思った。口には出さずに留めた。


ミロは本当に眠くなったようだった。人心地がついたのだろう。
カミュが何を振っても、うん、うん、と生返事めいた肯定しか返さなくなった。
カミュはしばらくどうでも良い話を振った後、私はシベリアが似合うか、と訊いた。ミロは、うん、と返した。
私がいなくてもシベリアは好きか、と訊いた。少し時間を置いて、うん、と返ってきた。
シベリアに居ない私は好きか、と訊いた。今度はうん、と、即座に返ってきた。
カミュは両手で頬を包むようにして頬杖をついた。口元を隠す。妙に嬉しかったのだ。
何だか紅茶にジャムを追加したくなった。ミロがジャム用の匙を自分のカップに突っ込んで混ぜていたが別に気にならない。
音を立てないように気を付けながら匙を奪い取った。
瓶底のジャムは一匙より少し多目だったが気にせず纏めて紅茶に放り込む。
冷めた紅茶と全然溶けきっていないジャムを啜りながら、カミュはふ、と視点を止めた。揺らぐ紅茶は赤い。
「では、金髪碧眼の私は嫌いか」
ミロは眠そうに首を振る。ううん、とようやく見て取れる程度の動作でミロの唇は動いた。


肝心なのはジャムがきれた、という事だ、とカミュは思った。
放り込みたいのに瓶底がのぞいている。彼は軽く溜息をついた。
仕方が無いので紅茶をジャムの瓶に注いでみた。
ミロは起きているのか寝ているのか静かに瞼を閉じている。こくり、と時々頭が揺れる。
カミュは寝室に行け、と促した。ミロはうん、と頷いた後で、ゆっくりと目を開けた。
いいの? と訊かれてもカミュは頷くだけだった。機嫌が良い時の彼は少し、優しくなる。
ミロはよく判っていない顔でうん、と、もう一度繰り返した。
寝室に向かう足を一度止め、振り返る。
「此処で寝たら風邪引くよ」
ああ、とカミュは頷いた。
うん、とミロも頷いて、そのまま寝室に消えた。








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