薔薇と君だけだ
蟹が出歩くのは夜中だ。
昼間は寝ている。
蟹はあまり仕事をしない。
仕事をしないから金もロクに持っていない。
蟹は善くない男だ。
次から次へと女を替える。
蟹は不養生だ。
深酒も煙草もやめない。
しかも、蟹は生意気だ。
私が注意すればする程、煙草の本数を増やす。
蟹は乱暴だ。
何か気に入らないと、ドアを酷く強く閉める。
蟹の声は大きい。
なのに、すぐ怒鳴るから、耳が痛くなる。
蟹は冷たい。
私が怒っても放って帰る。
蟹は人でなしだ。
きっと、私が泣いても放って帰るのだろう。
蟹はだらしない。
脱いだものすら忘れて行く。
蟹は頭が悪い。
昨日言った事すら、憶えていない。
蟹は嘘つきだ。
私はいつも待たされてばかりだ。
蟹は好き嫌いが激しい。
野菜を食べない。魚も食べない。肉も食べない。
蟹は気まぐれだ。
いつも唐突に、私を攫う。
蟹は我儘だ。
思い通りにならないと、むくれる。


蟹は言う。
お前、俺の何なの、と。
私は思う。
その台詞そのまま熨斗を付けてお前に返してやる、と。
蟹よ。お前は私の何なのだ。
私よ。蟹は、私の何なのだ。


蟹は風呂が長い。
その癖、浴室を片付けない。
蟹は寒がりだ。
冬は出不精で酷い。
蟹はひげが濃い。
痛い。
蟹は歩くのが速過ぎる。
待ってなどくれない。
蟹は時間にルーズだ。
しかし、私の遅刻にはうるさい。
蟹は靴の踵を踏んでから、履く。
個人的にはこれが一番許せない。
蟹は皮肉が好きだ。
もっとはっきり言ってくれた方が小気味好いのに。
蟹は時々生きていない。
どうも、見失うらしい。
蟹は稀に、本当に稀に、本音を話す。
しかも冗談の後に言うから、余計惑うのだ。
蟹は


蟹は、つまらない男だ。
その辺に転がっている男と、何ら変わり無いではないか。
然し、私は蟹の事をこんなにも知っている。
然れども、蟹は私の事を何も知らないのだろう。




蟹が私の髪を引っ掴む。
私は怒って蟹の顔を引っ掻く。
こんのバカ、と、蟹が怒鳴る。
お前こそだ、と、私も怒鳴る。
失せろ、と、蟹が、一際大きい声で怒鳴る。
死んでしまえ、と、私は思ったが、寸でのところで堪えた。
替わりに、死んでやる、と怒鳴り返した。
自分の声で鼓膜が痛い。
蟹の脛を思い切り蹴った。こんな柄の悪いシャツはさっさと破いて捨ててしまえ!
腕時計も叩けばいかれるだろうか。
ついでに前歯の一本もへし折れば、歯の浮くような台詞も様にならなくなるだろう。
死んでやる、と、もう一度怒鳴りつけた。
蟹が何か言ったが聞こえない。聞いてなどやるものか。
引っ掴まれた髪を思い切り、引かれた。
痛い、と、叫んだ私の金切り声は、もうまるで女の声のようだ。
罵詈雑言は次から次へと間断無く思い付いた。
まるで、咽喉からそのまま思い付いているようだった。
蟹め。
そんな煙草臭い息で私を諌めようったって無駄なのだ。
私には効かん。
何度もその手に騙されたのだ。
蟹の手が私の髪を滑り、後頭部に回される。
どうして、こんな時まで蟹の手は大きいのだろう。器用に動くのだろう。
いいから、と蟹が言う。
何が、いいから、だ。
煙草臭い。
そんな不機嫌そうな顔で言ったって駄目だ。
右腕を回したって駄目だ。
引き寄せたって、囁いたって、駄目だ。
私は振り払うように頭を大きく振った。
第一、勘違いするな。私はお前の女ではない!
蟹は舌打ちをする。
面倒臭え、だと。
私こそだ。こんな時間の使い方はもう嫌だ。
面倒より、悲しくて嫌だ。
さっさと男らしく決着を付けてみせろ、蟹よ。
死んでみるか、と蟹は言う。凄烈に笑う。
死んでやる、と、私は睨み返す。蟹のペースに乗せられる訳にはいかん。






そうして殺された事が何回あったというのだろう。
蟹もバカだが、私も充分バカだ。
蟹が何をしたいのかは、よく判らん。
だが、私は知っている。
蟹は素直でないのだ。
蟹は正直でもない。
怖がって良いものを強がるし、膝を折るべき所で突っぱねる。
蟹は謝るのが下手なのだ。
そういう事にしておいてやる。
私は寛大なのだ。
蟹男よ、有り難く思え。
このアフロディーテがここまで気を掛けたのは、薔薇とお前だけだ。


そう言うと、ああ、はいはい、と、蟹は気の無い返事をした。
そうして浴室を散らかしたまま、帰った。
私が思い切り引き裂いてやったシャツを忘れて帰った。




蟹は意外にシャイなのだ。
事後に何の甘いフォローが無いのも、致し方ないとしよう。
逃げるように帰ったのも、きっと、恥ずかしかったのだ。
蟹。
私は全てお見通しだ。
私は、君の事をこんなにも知っている。
しかし、君は私の事を何も知らないのだろう。
蟹め。
君は素直ではないし、だらしないし、生意気だし、乱暴だし、全く悪い男であるが、それもおそらく、君の魅力なのかもしれん。
いや、いっそ品行方正で、正直で、優しくて、見たことも無い程、善い男の君などそれは既に君ではない。
それは、蟹ではない。
そのような蟹は、如何せん、気持ちが悪いだけだ。
蟹よ。
私は騙されている事を知っているぞ。
しかし君は判らんだろう。きっと、一生判らんだろう。
今の私は騙されていたいのだ。
ペテンも一流なら、それも又真実に成り得る気がしているのだ。




さて、昨夜の私は一体何をあんなに憂えていたのだろう?






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