11月8日 聖域へ向かう途上にて。
随分長い階段だ、という事は知っていた。
急勾配で酷い。しかも立地の問題で足元も覚束ない程薄暗い。
自分の足音を一つ一つ確かめるようにして上った。
コートの裾を踏みそうになる。
新しく卸したばかりのコートだった。
昨年までの白い物に飽きが来たので、似たような仕立てで色味の落ち着いた物を卸した。
うっかり踏み付けでもしたら真っ白い足型が付いてしまう。
人の通る為に作られるのであろう階段なのに、如何したものか此処のコレは可哀相になるほど真っ白に煤けていた。
久々の仕事なのかもしれない。
コートを摘んで階段を上りながらカミュはそんな事を思った。



ウンザリするのはコートへの気遣いの億劫さであった。
いっそ上着など着て来なければ良かった。
ここはギリシャで、シベリアではない。しかも未だ十一月ではないか。
今年のコートは昨年までの白い物より少し重たかった。長く着ていると肩が凝ってくる。
ベルトがちょっと、違う。そう思ってカミュは自分の下腹の辺りに目を遣った。
余所見をしては危険なので足も止める。立ち止まれば滞るような疲労を両脚に感じた。
いい加減、半端に曲げたままだった両腕も疲れている。 カミュは摘んだ裾を持ち上げ、手首で一度大きく払った。
空気を孕んで階段に積もった埃が盛大に舞う。 それにもウンザリしてカミュは甚だ不服そうに、鼻を一つ鳴らした。
階段下から名を呼ばれた。階段下から名を呼ばれるのは嫌いだった。
振り返る時の余地とか、視界とか、見下ろした時の高さとか、そういうのが億劫なのだ。
下から見上げられるのは嫌いではない。但し平坦な地面の上でに限る。
カミュは常々自分の可愛い教え子にはそう伝えてきた。 同僚には自分のこんな一性癖を話した事はない。
然し、きっとミロは知っている。知っているから仕掛けてくる。
返事をせずにカミュは階段の先を見上げた。視界は未だ開けていない。



一度休めた脚が再び同じ速さで働くには時間が掛かった。
その間に、少し、ミロが距離を詰めたようだった。 後ろから自分のものとは違う足音が細く聞こえてくる。
こんな裏道があるなんて知らなかった。そんな事を言っている。
当然だ。私は、お前よりも何回だって多く聖域を出たり入ったりしているのだ。
そう言うのも億劫だったカミュはやはりコートの裾を気にしながら、淡々と階段を上る。
お前の知らない道も、知らない土地も、知らない人間も、沢山。
これも脳裏に浮かんだだけで別段どうしようとも思わなかったので、そのまま何も言わずに階段を上った。
幅の狭い通路を更に狭めるようにして丈の高い、古い建物が両脇に聳え立っている。
その目抜き通りの一番奥に、只管真っ直ぐ、只管急勾配で古ぼけた階段が地上に向かって伸びている。
階段の方が比較的新しい。街は街というより既に街の残骸のような体裁だった。
窓硝子もサッシも壁も絵に描いた様な現実感の無さで、只そこに在るだけの物になっている。
カミュは生気の煩くない、この静かな目抜き通りが好きだった。何度か此処を通って聖域に帰っている。



まるで、忘れちゃったみたいだ。
ミロがそんな事を言った。
足音は又少し細くなっている。声もさっきより遠い。
もう少しで地上の筈だった。今日は重たいコートを摘んでいるからいつもより少し長く感じる。
何をだ。カミュはそう返した。
思っていたより声が反響した。此処で声を出したことは初めてだった。
何度か緩くリバーブして、それで再び足音しか聞こえなくなった。
此処に暮らしていた人が居た事を。此処に生きていた人達の事。
ミロがそう言った。言って、脚を止めた。 階段脇の町並みを眺めているのかもしれない。
カミュは脚を止めずに声だけ気持ち大きくして、街がか、と返した。
ミロからの返事は来ない。



建造物には記憶など残らない。
誰が居て、誰が死んだかとか、そういう機能を街は備えていない。
只、忘れていると言うのなら確かに忘れているとしか言いようのない様だ。
ここには生独特の体温が無い。
生きていた、生きている、とかそういう曖昧な表現で喩えるのならば、と、カミュは考えた。
自分は街に生きるも死ぬもないと思っている。しかしミロはそうでないのかもしれない。
カミュはもう一度コートの裾を軽く払った。
星明りが見えてきた。思い出したように時計を確かめる。0時を過ぎていて欲しかった。
皮の手袋まで卸した。新しいコートに合う色を散々探した。
久々に会うから何か気張らなければいけない、と思ったのだ。
爪も髪も小奇麗に整えてある。 こんなに気を遣うのはサガに会う時くらいだ。カミュは腹立ち半分にそう思う。
自身ですらこの機微はよく判らなかった。
これは何も今日辺りがミロの生まれた日だから、とか、特別なものだから、とか、 そういう気持ちの悪い (カミュ自身は、特にミロに対してそのような特別な意識を持つ事を、自分で気持ちの悪い事と感じていた) 認識の結果ではない。そう思うことにしていた。
ミロの足音が追いついてきた。カミュはもうすぐ地上に着く。
幾つになった。そう言った。あまり大きな声にはならなかった。



階段を上りきってしまったら言えない。そう思っていた。
地上に出たらすぐに聖域だから、偉く長い階段だった、とか、すっかり夜になってしまった、とか、 多分そういう変哲無い会話しか出来ない。
何かちょっと意味の含んだ話をするには適度に雑然としていた方が良い。
階段を上りきったそこには野ッ原と見上げた一面広がる秋の夜空しかない。
そこで誕生日がどうこう会話など出来る筈も無い、とカミュは思う。気持ち悪くて適わないではないか。
言うならここしかないと思っていた。そのつもりで選んだ。
ここなら面と顔を合わせないでも済む。相対して如何こうなどそれこそ気持ち悪くて適わない。
それでもやはり自分の何処かが邪魔をした。それで、そんな妙な言い方になった。
二十一になったよ。そう返ってきた。
ミロは、特にこういう時にはよく頭を働かせる。無意識の内にもカミュはそれを少し、期待していた。
自分の如何してか複雑な心境もミロは多分知っているし、こういう時に意地悪をしてくる性質でもない。
カミュは見上げた。星空も大分開けて来た。
おめでとう、って言って。
その一言を待っている。
カミュは埃を払うふりをして立ち止まった。もう数段で階段は終わる。



地上に出ればすぐに聖域だった。
ミロはカミュの少し前で、のんびりした調子で歩いている。
さくさくと草木が音を立てる。カミュはそれだけを聞いていた。
もう少し夜も更ければ息が白くなるのかもしれない。そんな事も思った。
今日は十一月にしてはよく冷えている。
地上の空気が冷える夜は空が澄んで高く、星がよく見える。
ミロはそれを知ってか知らずか時々真上を見上げている。
ちょっとしたら、すぐにシベリアに帰るの。 見上げながらそんな事を訊いた。
ああ、とだけ答えた。
カミュの「すぐ」は本当にすぐで、それはミロもよく知っている。
今夜は、俺と一緒にいてくれるの。 脚は止めずにそう言った。これにも、ああ、とだけ答えた。
うん、と頷いてミロはちょっと首を下げて、それで又歩調を元に戻した。


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