飾り窓
喧嘩をした話は聞かない。
理由を訊いても、あれはニコともニヤとも言えぬ、真実得体の知れぬ笑みで曖昧に笑うだけであった。
青い眼を細め、何が楽しいのか、口元をキュッと締めて、少し俯き加減に瞬きをする。
そして、眼を開き(その度に、これの眼はこんなに大きかったのかと暫し驚くのだ)、
又、瞬きをし、薄く、唇を開く。一切、言葉は零さぬ。
その様は何処かで見た筈であったが、 それが何処で、何であるかは判らなかった。
赤い唇の造りというか、蓋し表情全体に憶えがあるのだが、 同時に、長く向き合うと善けない気がして、眼を逸らしてしまう。




鼻が独特の匂いを感じてはいるが、 それも善くない気がした。
隣人に感ずる造形の色、危うさとは、又違った匂いだった。
これはもっと(あらゆる意味で)健康であったし、決定的に愚直であった。
あの隣人は、肚の底では色々と複雑で、見た目の儚さとは裏腹に全く混濁していて、いっそ人間的である。
これは、その二本の腕と二本の脚で、床に這い蹲るが最も似合うような、 言ってみれば、そのような、愚かな愛嬌も持ち合わせていた。
喩えば、これが玩具だったのなら――…










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何を考えているのだ!




お前は、と、頭を撫でてやる。
シュラは読みかけの冊子を置いた。
膝元でミロが笑う。
体温が近い、爪先が妙にムズ痒く感じ、シュラは眼を逸らした。
ここの処、毎日に近く、こんな事が続いている。
喧嘩をした話は聞かない。
理由を訊いても、ミロはやはり、笑うだけであった。


只、遊びに来ているだけなのであろうか。
ならば、そう言えばよいではないか。
解せぬ。
シュラは何回目かの同じ思考にウンザリとした。
これは魔物と呼ぶに相応しいのかも知れぬ。
少なくとも、あの笑みには魔物がいる。
カミュを思い出した。
あれは、ミロの所業を一々咎めたりはしない。
その上で、時折、思い出したように酷くミロにあたるのだ。


折檻を受けている時も、ミロはこうやって笑うのだろうか。
謝りもせず、怒りも泣きもせず、只、ゆっくりと笑うのだろうか。


その様を想像し、驚いて、シュラは一人、首を振った。
…何を思ったのだ。
ミロが首を傾げた。
やはり、俺はどうかしている。




白昼夢とは、このような事をいうのか。
リビングの板目がはっきりしない。
ひょっとしたら、本当に夢を見ているのかもしれない、と、シュラは思った。
夢でなかったのなら、何だと言うのだ。
どうも、俺はおかしい。
感覚が鈍い。麻痺しかかっている。あれの笑みの所為だ。
やはり、リビングの板目がはっきりしない。
視界の端に映り込む金色がそれを邪魔している。
ミロはシュラの足元で座り込み、曖昧な仕草で、彼を見上げている。




両膝にミロの手が置かれた。
覗き込む眼の青さに驚く。これの眼はこんなにも青かったか。
膝に力が加わる。支点。その両腕がバラバラの動きで、健やかに伸びる。ミロが擦り寄るように、肩を寄せる。
背に落ちた金髪が、骨と肉の合間で揺らぐのを見た。
いい加減に刈ってやろうと思っていた、髪。
陽が当たるより速く、それ自体が発光している錯覚を起こす。
窓の存在を思い出した。
…あそこからは、此処が見えてしまうではないか。
思わず、窓に向けて手を伸ばした。届く筈もないが咄嗟に、そうしなければならない、と思った。


判った時には、あれの唇は曖昧に笑うだけであった。




夕飯時、正規の飼い主から帰して寄越せと小宇宙電話が入った。
ミロは振り返りもせずに一つ上の宮へと駈けて行った。
呼べば振り返ったのだろうか。
いや、そうすれば、又、あの笑みが来るに違いない。
漠然と、夢に見そうだ、と、思った。




あの笑みは嘗て大昔に見た映画のそれによく似ている。
あの女優はそうやって、口付けをねだったのだ。






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