カメオ
冥界は全体的に味気のない空気をしている所だが外れまで来ればそれなりに辛気臭いような湿っぽいような、そんな空気になった。
此処は天井が低く地下通路のようになっている。燭台が転々とあるが大して機能していない。通路を抜ければ地上だと言う。
飛び飛びに設置された燭台は埃を被って薄らぼやけた色彩だったが、その炎自体は死者の魂の如く凛々と青白い。 石畳自体は何の色気も無い灰色なのだろうが、燭台の炎自体が青いから照らされて回廊全体が青く見えた。
埃臭さに交じってよく慣れた薔薇の匂いもする。地下で嗅ぐ薔薇の香りというのも陰鬱で悪くはない、と思った。
君の性格はよく知っている、とアフロディーテは言う。俺の横に腰掛け、先から延々と文句を垂れている。此処に移動してからずっとだ。
知っているのだ。君は別に、この作戦に文句があって舌打ちをしていたのではないのだろう。
もっと他に君にしか判らぬ機微があって、それで舌打ちをしたのだろう。 然しだ。それは外からは判らん。
私はたまたま生憎君との付き合いが長いから何となく判るのであって、そうでもなければ君の心の内など到底判らん。
外から見れば、きっと恐らく、君が作戦に何か不満を持って、 然しそれを陰湿にも口に出さず、回りくどく舌打ちする事で不満だけを表明しているように見えてしまうに違いない。 そして皆には、この蟹はそういう嫌味な仕草で、場の空気を悪くさせようとしている嫌な蟹だと思われてしまうに違いないのだ。
アフロディーテはいい加減不機嫌そうな顔を作るのにも疲れたのか、いつもと変わりない顔で説教だけを垂れていた。
出るにはもう少し時間があった。冥衣とやらはどうもしっくり来ない。肩を捻るようにして二、三、調子を合わせた。
どうせ少しの事だから適当で良い気がしてきた。この違和感は一度気にすると際限なく気になりそうで、そっちの方が都合が良くない。
聞いているのか、と言うので適当に返事をした。
回りくどいのはお前の方だろう。言いたい事だけ言え。そう言うとアフロディーテは再び不機嫌な顔になった。
君が損をする。そう、唇の先で呟く。俺は聞いていないふりで肩を回した。
俺の態度が気に食わないのかアフロディーテは鼻で息をついた。
第一何故お前が此処に居るのかが判らん。文句をつける為だけに居るように思える。
そう言うと、知りたいか? と返してきた。随分上から小憎らしい物言いをしたものだ。


折角顔を見ずに来たと言うのに何を思ったのかこれが後ろから付いて来た。
どうも足音が俺のもの一つだけではないと思ったのだ。振り返ればアフロディーテが大股でツカツカ来るではないか。
そうか、別れを告げに来たのか。可愛い所もあるじゃないか。そう言うともの凄い形相で死んでしまえと言われた。
俺の気分も何もが台無しだ。
つい、口が出た。お前が願わなくてもどうせ数時間もない命だ。そう言ったから、良くなかった。
アフロディーテの説教は長い。俺の態度から始まって些細な癖、ちょっとした衝突の事、 女癖から酒癖、偏食、煙草、至る所に飛び火して先の舌打ちにも話が及んだ。 これは本当に俺のことをよく見ている。
アフロディーテは知りたいか? ともう一度繰り返して脚を組んだ。俺の顔を覗き込むよう、首を傾げる。
俺が損をするから、何だと言うのだ。本当は、それを訊いてやりたかった。
お前が此処に居る理由などそれ程重要な気もしない。居るものは居るし、帰れとも言う筋合いでもない。嫌でもない。
頷かなくても黙っていれば肯定と受け取るだろう。目が合ったので勝手にしろ、と表情で伝えた。


まだ少しだけ時間がある。
アフロディーテは手持ち無沙汰に指先で髪を弄んだ。如何にも下らない事だ、と前置きをする。
私は、本当はサガ達と一緒に行きたかったのだ。何も蟹男に付き合う義理はない。
立候補したのはお前じゃないか。そう言うと、だから前置きしたのだ、と、ほとほと疲れた仕草で背を丸め、腕も組んだ。
巻き髪を指先に引っ掛けて弾くように肩越しに払う。トンガリに引っかかった数本は気にしないらしい。
冥衣は攻撃的なデザインをしている。 髪が縺れて煙るように絡まっているがこれも無視していた。
人一倍身形には気を配るこれが髪を気にしないのは余程疲れているか、人に気を許している時だ。
此処には俺しか居ないので(おまけに薄暗くて視界が悪い)これも大抵気が緩むのだろう。
アフロディーテは組んだ脚を解き、膝に肘を置いて頬杖をついた。つまらなそうに口を開く。
大きな声ではないが、俺達の他に誰も居ない石造りの回廊は声がそれなりに響いた。 アフロディーテはそれを嫌ったのか声を潜めた。小さ過ぎて発音が曖昧になるが、隣に居る俺には別段支障はない。


君の仕事振りに不安を覚えたとか、そんな事ではない。第一君の仕事にまで口煩くするつもりは毛頭ない。
君はいつも気紛れだが今回の仕事は根気を入れそうな気がする。何となくだが。 だから、監視目的とかそんな無粋な事でもない。
そう言って唇を軽く尖らせて又、鼻で息をついた。
監視など考えてもいなかった。これが余計な世話をしでかす事は割りといつもの事だからそこは大して気にもならない。
少し瞬きをして、唇を一度湿した。 こういう時のアフロディーテは妙に愛想なく飄々とした顔をする。薄暗くてよく見えないが多分そんな顔をしている。
俺はその表情が存外気に入っていたので、つい、もう少し見えないか目を眇めた。


不思議だな。いざ君が一人で出るとなったらどうも納得が行かなかった。
ケッタイな前座があったものだ。君ではムウを越せぬ。万が一越せてもアルデバランも越せぬ。 仮に奇跡が起きたとしてその後はアイオリアだ。考えるのも馬鹿らしい。いっそ爽快に笑い飛ばしたい位、馬鹿らしい。
まあ妥当に考えて、君は気分良くペテンを掛けて、そのまま即座にこっちの世界に出戻りだろう。一人でな。 一人で嘘を吐いて一人で憎まれ、一人で再び死ぬのだろう。下らんな。下らん話だ。
然し、私はそれがあまりに気に食わなかったのだ。いいか、蟹。ここからが大事な所だ。
私はサガ達と共に行きたかったと言った。実際、私の持つ能力的にもその方が良いとも思った。私は切り込みに向かないからな。
然し君が一人で行くと言うではないか。蟹男が何を言い出したかと思った。 前教皇まで何を言うのかと思った。前教皇は別働だと言う。つまり、君は一人で? ふざけている! 鉄砲玉も似合う歳ではなかろう。 話に真剣味を持たせる為の役か。成る程君には似合いだな。実は内心前教皇の耄碌を疑ったりもしたのだが合点が行った。
適役だろう、君は露悪的だし、実際君は君の正義を逆撫でしないのならば冥王にだって付くだろう。 悪ぶって振舞えば、君の判りにくい道義を知らぬムウはそれを信じるだろう。アルデバランも信じるだろう。そして君を憎むだろう。
それで正解なのだ。それが一番の、当然の結末なのだ。何も残念に思う事等ない。寧ろ作戦として喜ばしい事だ。 蟹よ。君が一人で幕開序盤に華と散るのと、私がそんな君の屍を越えてサガ達と進むのと、全く並行した問題なのだ。 私は大して頭が良くないが、そんな事も判らぬ程頓珍漢な仕組みはしていない。
ところが私はそれが気に食わなかった。頭では納得している自分が自分でおかしいと思った。気味の悪い話だ。 サガ達と行きたい自分が嘘であるかのようにすら思えた。
私は想像した。直ぐに君の屍を踏ん付けて進む自分の姿が脳裏を過ぎった。
判るか、蟹。その時、私が感じた途方もない嫌悪を。憤懣を。遣る片のない焦りを。
今すぐに手を挙げなくては駄目だと思った。 だから手を挙げて、言った。蟹と共に行きたいと。
それで君について来た。馬鹿にしてくれて構わん。 私は折角得た本来の使命と短い二度目の命を捨てたに等しいのだからな。それも下手くそな猿芝居を打って君と心中する為にだ。
これでは私の生が可哀想な程だ。然し、聞け、蟹よ。何が一番哀れかと言えば、この選択を一切後悔していない私の、この心だ。
私は後悔していない。寧ろ清々しい程だ。諦めたような、醒めたような、悟ったような、呪われたような、そんな心持だ。
哀れめ、蟹よ。結局のところ、私は、君が一人で悪く思われるのが嫌だったのだ。
だからこれ以上訊くな。私はそれだけだ。私が此処に居る理由はそれだけなのだ。


堪える余裕もなかった。どうでもいいような口調でそんな事を言い出すからだ!
俺は思い切り笑った。笑ったが、アフロディーテは何も言わなかった。馬鹿笑いをする俺を一瞥して、ふん、と鼻を鳴らしただけだ。
もっと面倒な奴だと思っていた。これほど俺好みの気の良い馬鹿だとは思ってもいなかった。
俺は只管笑いながら、手招きをした。人をおいと呼ぶのは止せ。そう言いながらもアフロディーテは距離を詰めてくる。
女だったのならそのままひっかかえて額でも頬でも思う様キスしているところだ。
聖衣なら、或いは生身だったのなら、その縺れて絡まった髪を引っ掴んで頭を掻き回している。
冥衣は攻撃的な作りをしている。が、これも判っているものだ。構わんぞと言ってきた。
遠慮なく頭を引っ掴んで髪を掻き回した。髪が指やあちこちに絡まって酷い様相になるが、あまりに愉快で掻き回す手が止まらない。
俺は只管声を殺して笑った。 博打にもならねえぞ。そう言うと、憮然とした声で全くだ、と返ってきた。アフロディーテは小さく笑っている。
どうしても笑いが漏れる。咽喉が引き攣って痛い。それでも笑いが止まらない。
漸くの事で言葉が出てくる。俺に命を寄越すのか。それだけ言うと、ああ、とだけ返ってきた。
笑ってはいるが笑い飛ばした訳ではない。飛ばせるものか。 この馬鹿は下らん感傷に感けて、こんな俺を気に掛けて、一代の博打を捨て駒に打ったのだ。


一頻り笑って、漸く波が治まった。俺の右手は未だアフロディーテの頭にある。
最後に一度軽く髪を握るように絡ませて、それで離した。アフロディーテはこうされるのが好きだ。
アフロディーテは呟く。肩口から背中の方に滑り落ちた俺の手を触れるでもなく触れる。
若し、私がはじめっから君と行くと決めていても、君は、同じ事を私に訊いたのだろうな。
そう言って、軽く頭を振った。それ位では纏まりそうもない。忘れかけていた薔薇の匂いが又一度漂う。
それは判らん。そう言うと、嘘だ、と言って、アフロディーテはもう一度、それは、嘘だ、と繰り返した。
ちょっと語尾が掠れた。それで耳に残った。
何が嘘だと言うのだろう。アフロディーテはそれで少し笑って、もう一度俯くように頭を振った後、いい、と呟き、俺の手を離した。


回廊の燭台は使い物にならなかったが時間を計る位の事は出来た。
次の油が切れる頃には時間になるだろう。ジリジリとした青い炎が揺らいでは傾ぎ、少しずつその丈を縮める。
群青色の揺らぎの中でアフロディーテはもう一度肘の辺りを直している。俺は一度首を回し、肩の違和感を気にしないよう言い聞かせた。
アフロディーテは言う。縺れた髪を直す事もせず、前だけを見て、愛想のない飄々とした顔で呟く。
これが終われば、今度こそ、もう再び今の君に逢う事もないだろう。 次に逢う時は私は私でないだろうし、君も今の君ではないだろう。
今は聖域の事で頭が一杯だから、悲しいとかはない。泣いたりする気にもならない。
何が言いたいのか判らなくなったが、と言って、アフロディーテはちょっと笑った。
揺らいだ空気に煽られて燭台の炎が又少し、丈を縮める。時間が来るより先に油が切れそうだった。俺は心の内でゆっくり数を数え出す。
これが本当の最後なら、悔いのないようにしたい。勝手で悪いが私はこの道を取らせて貰った。この際、君の意向は無視する。 さっきは下らんと言ったが、今は、君と一緒に下手な芝居を打つのもそれ程悪くないように思っている。
全力でやるぞ、蟹。芝居は多少オーバーアクション気味な方が良いらしい。君が何をしても私は笑わぬから、思い切りやれ。 私も精一杯を約束しよう。騙し遂せてみせるぞ、蟹。それは、きっと、愉快だ。
アフロディーテはそう言って前を向いた。
二十を数えた。燭台はまだ落ちない。
行くぞ。蟹。
視界の端で金糸の髪が煙る。俺は声に出して頷いた。


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