牙城
どうもこれが俺にやたらと憑いた理由が読めてきた。


ミロよ、お前は俺をやや甘く見ていたかもしれぬ。
お前は確かに、策士だ。己をよく知り俺をよく量って的確に振舞い、酷く惑わせた。
ひょっとしてお前は、俺の性格の癖を知って居心地の良い領域を確保していたのではないか。
振り回されることのない、言ってみれば、手玉に取れる関係を。
だが、それも仕舞いだ。この慢性の睡眠不足も仕舞いだ。今や俺はお前を掴んでいる。
俺はとうとう、あれの思考の癖を掌握したのだ。
如何とも気持ちを持て余して不思議にあれを眺めている限り、きっとあれは曖昧に笑って俺を幻惑する。
あしらうに得手な反応だからだ。
だが、明け透けに好いと言って頭を撫でたりした日には走って逃げ去り、きっと、そのまま暫く近寄って来ない。
これは、あしらうに不得手な反応であるからだ。
あしらいが自由に行かぬ相手の傍を避け、基本的にあしらい易い反応をする者の傍で反応を誘発する行動を取る。
そうすることで結果的に自分の行動を通しやすい環境を整えているのではないか?
確かに俺はお前のあしらうに得手とする態度を良く取り、不得手な態度はあまり取らない。
今も機嫌良く頭をのこのこ揺らしながら絵など描いているが、 それも俺が、その所作を不思議に思って然しその上でそれも放っておくだろうことを知って、そうしているに違いない。


俺は冊子を傍らに置いた。読めるか、俺のこの表情が。
俺はお前を読んでいるぞ。きっと、お前は振り返る。それで、ちょっと頭を揺らして、又視線を戻すのだ。 俺が何もしないと思っているだろう。然しそれは昨日までの話だ。
ミロまでは精々三歩位の距離しかない。
あれは寝転んでいるから飛び起きて逃げるのも不利だろう。 しかも都合の良い事に今日はリビングの床と相性の良くない素材のものを穿いている。膝を立てれば景気良く滑る筈だ。
引っ掴んで押さえ付けて頭でも撫でてやる。髪を掴んで頬を寄せ耳元で気色の悪い台詞でも囁いてやる。 とにかくこれが驚いて逃げれば成功だ。
要は、俺がいつもいつもお前にとって、あしらい易い行動を返してくるとは限らないことを示せば良い。
いつも通りにしていても、時に俺はお前の考えもしない行動に出る事があると示せば良いのだ。
そうすればこの精神における一方的な有利性の法則が幾らかは崩れる。


野生の勘で気付くかも判らぬから一気に間を詰めることにする。
俺は可能な限り自然を装って、利き脚を構える。目測を確かめ、押さえ付ける要所を狙う。
肩と肘、腰と膝、筋の付け根と弛緩点、あれは身のこなしが良いから全て狙いは極めねばならぬ。 中途半端に逃しては返って体を傷付けてしまう。
押さえ付けられたあれはどんな顔をするだろうか。
想像するだに愉快だ。思えば俺はあれの表情は知っているようで僅かしか知らぬ。
あの青い目を見開いて俺を見るだろうか。 夏を写し込んだ様な真っ青な目に、今度こそ、俺を一杯に捉えるだろうか。
その線を引けば右手を一度脇に下ろすだろう。首を傾げて完成を確かめるだろう。俺は床を蹴った。


思っていたより簡単に捕獲を得た。
こなしの良さが裏目に出たようだ。体を捻ったからそのまま押さえて身動きを封じる。
腕に、脚に伝わる力の張りが愉快だ。その体勢では如何にも出来まい。 判っているのだろう、然しそれでも抵抗を試みる、その反応に優越を感じる自分が面白い。
とうとうこれの仮面を剥いだ。素の抵抗をするミロなど今まで願っても叶わなかったものだ。
ミロが捻ったままの体勢で俺を見る。何か酷い不利益を被ったような表情で、青い目一杯に俺を写している。 溜息の出るような充足感に眩暈を覚えるほどだ。
このまま悦に浸っていいものか、何か大きな落とし穴があるのではないか。
然し躊躇う何処かの俺も、この青と表情には勝てぬ。溜まらず目的を忘れそうになる。
胸の空く様な爽快に任せて首元に顔を寄せたのは一度気持ちを落ちつかせようと思ったからだ。
元より傷付けるつもりはない。当然、俺にはそんな趣味もない。
ぎゃあと色気のない悲鳴を上げて大仰際の悪い抵抗を見せるが、第一安心しろ。繰り返すが、俺にはそんな趣味はない。
一度息を吸って、気を落ち着かせてから何か面白い事を言ってやる。
それで、これの心を少し騒がせてやる。今までのお返しだ。サンザに乱された俺の心もちょっとは知るが良い。
耳元の髪を梳いてやりながら頬を撫でる。
これの色も元々は白い筈だが日焼けが良く似合うのでそれが少し、羨ましい。
うつ伏せから右半身を捩るようにして体を捻っていた。首だけ俺を見上げ、何か言いたげに口元をきゅっと結んでいる。
リビングの床が軋んだ。小気味の良い音だ。
今はミロの頭の下敷きになっている落書き用紙には下の方に絵とは関係ない掠れた直線が引かれていて、 それの延長上に鉛筆が放り出されて転がっている。
気になって視線を一瞬移した。そこを衝かれた。


肩を押さえていた力が少し緩んだ。そこに出来た斜めの隙間をミロの右肩が衝いて抜ける。
予想外の向きだった。逃げるのではなく俺と向かい合って仰向けになるように捻ったのだ。
左手が抜けた。やられた。俺の後ろ頭に伸びて、肘から先で首から頭を引っ掴む。そのまま抱え込む。
想像していなかった向きに対処が遅れた。しかも、俺は如何したことにも、本当に如何したことにも、思わず見惚れてしまったのだ。
その青い目の表情に。一瞬の事、俺を捉え、取ったと言わんばかりに瞬いた、ガラス玉のような色に。
瞬いて、眇められた。すうと音を立てて目を細めたのが判った。違う。それはミロが息を吸った音だ。
食らいついた唇は少し笑っている。
情けないことに俺は驚きも何も通り越してこの勢いで歯がぶつからなかった事に妙な感動を覚えていた。


好きでもなかったら、来ないよ。
そんなことを言ってあれは帰ったのだったか。
俺がいなくなっても、いいの。
そんなことも言った。俺から身を離しながら。しかもいつもの曖昧な表情と仕草で、ちょっと笑いながら。
何なのだ。あれは、一体何なのだ、本当に。
仕組んで振舞っていたのではなかったのか。俺が言いようになるから、そうしていたのではなかったのか。
方方に纏まりを失くした頭の片隅で青い目の瞬きだけがチカチカとそればかり繰り返している。
あの表情を拝めただけでも良しとしておくしかないのだろうか。
然し良しとするならば、一体何が良くてヨシとするのだろうか。
床に転がった鉛筆を拾わなければならない。
まず、それをしてから、よくよく落ちつかなければ駄目だ。


思っていたよりも、巣食われている。しかも手強い。堅牢なのはあれの仕掛けか。それとも。




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