ロメオ
何重にも巻かれた包装紙のような束縛がスルスルと解けていく。
一枚目で意識が少し、帰ってきた。二枚目で爪先が何処にあるか判った。
三枚目で手足に血が流れ込み四枚目で凍り付いていた臓腑が一気に解ける。
五枚目で脈が跳ねた。
六枚目で息が吹き込まれて、七枚目で瞼の裏が熱くなり、八枚目で耳元に歌が聞こえ、九枚目で私は何か呟いた。
十枚目で差し込んでくる。
歪みなくひた伸びたそれは縦横に駆け巡って眩く格子を描き、 そのまま、私の中の一番奥深くを埋め尽くすように白く駆け抜け、 瞬きもせず躊躇いもせず何か一つの目標だけを目指して満たしていく。


音を立てて数多の映像が焼き込まれる。
それを走馬灯のようだと思い、 それで何時か何処かで走馬灯を見たと思い出した。
光の速さで帰ってくる。絡み合う糸の様に一枚を基にして関連した映像が次々と戻ってくる。
父や母の顔、幼い頃過ごした家、アイオリア、聖域、射手座の聖衣、教皇。
そうだ。教皇。私は聖闘士だった。
焼き込まれているのではない。これは、きっと元の場所に帰ってきている。
一つ二つと生が帰ってくる。それが十四を数えた。
冬を越えて春を駆け、夏で、戻ってくる速度が突如がくりと落ちた。
七月一日、七月二日、七月三日、…八月十六日、八月三十日、九月一日…。
残りが少ない。残り?
分厚い本の頁を繰るように細切れで勢い良く捲られていた映像が、 大判の写真を額に入れるように、ゆっくり、一枚一枚嵌められるようになった。
電気を通すような音が嵌まる度に体中に響く。
これは、記憶だ。




最後の一枚になった。
アイオリアのことを考えていた。
女神…は私の腕に在る。未だ幼い。当たり前だ。先日降臨されたばかりなのだから。
暖かくて柔らかい感触が甦る。
その時の私は、これをどうしても護らなければならない、と思っていた。
降臨された時の誇らしく清々しい決意とは全く違う、いっそ酷く追い詰められた気持ちで。
女神を護る。などと。誇らしく等ない。
何かを本当に護らなければならない時にはそんな余裕はまるで無いと知った。
走っている。走りながらその時の自分を自嘲した。そして切り捨てた。
もう戻れぬ。振り返れば思い出は美しいに決まっている。
混乱した頭の中は恐怖と本能がその大半を占めていたが、未だ、正気を失ってはいない。
纏まりの欠如を自覚している。欠如しているが、走っている。
これはきっと最良の判断である筈だ。
痛覚は生命の危機を知らせる為にある、と聞いた。
然し私の体は既に痛みを感じていない。
私の体は死んでいるのだろうか。それとも、もう、生きる余裕がないと見做したのだろうか。
胃から何かが逆流してきて口と鼻から噴き出した。胃液にしては赤い。然し、それがなんだ。
血液がカラになっても走れるだろう。そんな気がしていた。
息が途切れたままになっても、きっと、私は走れる。


初老の男が焼き付いて、それと幾らかの暗い空が目に見えた最後の映像になった。
真っ暗な中でゆっくりと纏まらない思考が流れ込んでくる。
終章にしては御粗末な作りだ、と思った。
シュラの顔はよく見えなかった。見えなくて良かった、とも思った。
崩折れた時、回転する視界の端に転がっていた小さな石ころがやけに頭に残っている。
何処までも続く暗い道にも似た絶望は、今は消えて、ない。
あの心臓が痛くなるような驚愕も治まった。
只、頭を幾多の鈍色に塗り潰しても尚足りなかった混乱だけが、疑念とほんの少しの未練となって胸の内を燻っている。
アイオロス、と言った。
燻っている。
その唇の形や、鈍く光る金色の短剣、その短剣がよく磨かれていて、酷く輝いていて、それに藍色の法衣が映りこんでいた事。
それが何か虚ろに見えて目を逸らした事。
逸らした先の顔は燭の陰影で左目が見えなかった事。
それが目を抉られた人形に見えた事。その壊れた顔で、私を見ていた事。
あれは、サガか。本当にサガか。
不意に憤りが沸き起こった。
カラになった筈の血液が、今一度だけ沸騰したように真っ白く脳裏を焦がした。


如何した!
サガは、如何した!
私は未だサガに逢っていないのだ!








十枚目がするりと解けた。
風に任せてマントを放り払った時のように軽やかな重さの移動と名残を指先に残して視界の端から消えていく。
春風に似ている。歌が聞こえた。視界を明けるのに障害は何もない。
私は目を開けた。
真っ青な空が見えた。




未だ少しぎこちない脚を慎重に動かしてベッドから降りる。
転んでは又色々騒がれるし、それも格好の悪いことだ。
リビングを覗くと慌てた顔をしてアイオリアが駆け寄って来た。
随分背が伸びて顔付きも大人びた。所作まで落ち着いたのではないだろうか?
兄さん、と呼ぶが、声変わりは何時頃したのだろう。今のアイオリアの声は、私の声に少しだけ似ている気もする。
スンスンと鼻歌を歌っていたミロが首を傾げるようにして金色の頭を揺らした。
目を細めて、一度瞬きをしてから、私から視線を外して又スンスン歌いだした。
これも変わっていないようでしっかり大人になった。
傾げる首の軽く浮き出た筋には子供の愛らしさはない代わりに健康な色気がある。
何より真っ直ぐ伸びた手足に驚いた。ミロは生まれも遅くて一番小さかった。これ程長身になるとは思ってもいなかったのだ。
未だ無理しない、と胸に当てられたアイオリアの手は節がしっかりして頑丈そうだ。
大きな手だ。大きく育った。それが妙に不思議だ。
可笑しくなって笑うとアイオリアが私によく似た顔で困った顔をした。
それも又可笑しくて私は笑ってしまう。
腹筋が動くのが心地良い。心配しなくても、何処もきちんと動いている。
そう言ってアイオリアの腕を軽く押し戻してやった。
アイオリアは何か言いたげに少し難しい顔で私を見ている。
幾ら見た目が大人になったと言っても、人の質まではそうそう変わるものではないらしい。
私はきっと、ニヤニヤしている。
アイオリアは比較的素直に、思うことを表情に出す。
これはアイオリアの一等可愛い所で、それをされるとどうも頬が緩んでしまうのだ。
アイオリアのこの顔は間違いない。兄さん、何をニヤニヤしてるんだよ、と訊く顔だ。
…ほら、口を開いた。
その時だ。向こうで適当にスンスン歌っていたミロが、声を被せるように兄さぁんと、呟いた。
笑ってしまったではないか! アイオリアが取って翻してミロの髪と襟元に食いついた。
逃げるミロの掛ける椅子が軋み、勢い倒れる直前で慌てて持ち直す。口を塞がれて何か言っているが判らない。
私が起きて初めに聞いたものは只管兄さん兄さんと連呼するアイオリアの声だった。
その時のアイオリアの声の情けなさと言ったら私までつられて情けなくなる位、本当に情けなかったのだ。
それを面白がったミロが真似をするようになり、真似も或いは一つの訓練なのか回を重ねる毎に妙に磨かれ、 その内アイオリアの真似というより寧ろ情けなさに焦点を絞った何かの真似へと方向性をシフトさせた。
最早ちょっと聞いても本家は想像付かないサマになっているのだが、それが又アイオリアの神経を逆撫でするらしい。
カミュの名を持ち出すとミロは黙った。そして再びスンスン鼻歌を歌い出す。
あれの折檻はとにかく容赦がないので第一に機嫌を取るのが肝心と聞く。
カミュは子供の頃からミロが自分以外の誰かを構うことを嫌っていた。
今も変わりないどころか過激化の一途と聞くが、当人のミロが嫌がっていないようなので誰も放っているらしい。


椅子に着けば向かいの窓から外が良く見えた。今日も晴れている。
窓辺に置かれた鉢植えの観葉植物はそれが正しい表現なのかは判らんが、曰くミロのペットらしい。
ミロはつい最近までイタリアで任務に当たっていた。それで世話を託されていたようだ。
飼い主の帰還は関係なく、うっかりそのまま獅子宮で世話を看ている。
私が起きた時には黄金聖闘士の全員が聖域に居た。
居たからそういうものだと思っていたが、後から、皆、報を受けて飛んできてくれたと知った。
ムウまで飛んできたから、とミロが言う。 手にノミを持ったまま飛んできたムウは、今はもうジャミールに戻っている。
どうも忙しい時期に復帰したようだった。
私の様子を確認した後、再び任務地に戻った者が多く、今この聖域には疎らにしか人が居ない。
今いる黄金聖闘士は私とアイオリアとミロと、常駐のサガのみと聞いた。
サガには未だ会っていない。
嘆きの壁前でも会っているが、あの時はそれどころでなかった。
起きた時に居た。私にしがみ付いて情けない声で男泣きするアイオリアの肩越しに、サガを見た。
壊れてなどいないサガの顔は真っ直ぐに私を見ていて、それで、私は何も言えなくなった。
声を掛けたら、そこで、不完全なまま何か一つの終わりを迎えてしまう気がしたのだ。


アイオリアが庭に下りたのを見計らって、私はミロに尋ねる。
歌っていたミロはスンスン言いながらも私の方を向いた。
ミロは昔から勘の良い子だったがそれは今も変わりがない。
アイオリアは、サガのことが少し憎いって。ミロは言う。
サガは、よく判らないけど、沢山泣いてた。と思う。と、言ってテーブルの上で腕を組み、それに突っ伏した。
難しいこと考えるの嫌いだ、とか、そんな事を言ったのだろう。
私も好きではないな、と言うと、うん、と頷いた。
ミロが突っ伏したまま横を向く。アイオリアはもう少し庭に居るだろう。
サガは難しい人だから、でも、生きてるから大丈夫だと思う。と言う。
自ら生を絶ったと聞いた。結末しか私は知らない。
私の知っているサガなど極僅かなのだろう。気付いた時には遅かった。
私は、サガが嫌いでないよ。憎くもない。憎める程、あいつをよく知らないんだ。
そう言うと、ミロが首だけ捻って私を見た。青い目を瞬かせて、うん、と頷いた。
これだけは言っておかないといけない。
今度こそ後手には回らない。
成長したアイオリアやミロや同胞達、女神、次世代の姿は、それだけで眩しくて幸せなものだ。私にとっては。
そういった意味で十三年前など如何でも良いとすら思っている。
サガがどう思っているかは判らない。それこそサガのことは十三年前から判らないのだ。


イタリアの仕事、楽しかったさ、と言ってミロがスンスン歌う。
その歌は知っている。生の喜びを高らかに謳いあげたような歌詞が印象的な歌だ。
折角生きているんだから、とミロがスンスン言う。私もそう思う。
アイオリアが野菜を抱えて庭から帰ってきた。
昼食どうする? とミロに訊くもスンスン歌うだけで返事をしない。 此処で食べていく、ということだろう。
少しは手伝えとアイオリアはミロを引っ張って台所へ消えた。




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