ラナウェイ
手首に引っ掛けたままの腕時計が撓んで互い互いにぶつかっていた。
足を留めずに手首から毟り取った。乱暴にしたから少し、足元が取られる。
一度舌打ちをしたが、下は向かなかったし、やはり足も留めなかった。
突っ込もうとしてコートを弄る。ポケットの位置が判らなかった。
これも羽織って腕を通しているだけなので、きっと後ろの方にいってしまったのだ。 型を確かめるくらいなら投げ捨てた方が早い。
握り締めた時計は指を切る程に冷えていた。
足の指先を思い出した。さっき、雪が入った。大概解けているだろうに指先は酷く冷たい。
時計は投げ捨てずに、指に掛けて持った。動く度にかちかち耳に障るが、見ずにいるのも不安だった。 手首に留めるのもウンザリしそうな冷たさなのだ。外に飛び出てから大分経っている。
文字盤を、目を眇めて無理矢理見た。直に日付が変わる。それで又少し、苛立ちが募った。
雪明りも楽しむ余裕がない。見上げれば木立の上に月も星も見えるのだろうが、そんな悠長な事もしていられなかった。
白い息が形を確かめる間もなく自分の後ろに流れ、何か生き物の様に、ゆっくりと消えていく。 その緩慢な揺らぎさえ、もどかしく思う。
雪の降る冬だった。それを喜んでいたのがつい先日の事だ。今は厄介な障害にしかならない。
急ぐのは気持ちと、かちかち規則的な音を立てる時計の金具と、いい加減に逸る鼓動だけに思えた。
足を出せども雪は纏わりつくし、吐く息は只管緩慢に流れるのだ。 夜風すら吹かないから凍てつく空気も留まって、只、温度計の上を徐々に、垂直に、のろのろと滑り降りているだけのように感じる。 体温を奪うより早く、鼓動が走っている。それもどうだ、と思った。
時計がカチカチ五月蝿い。0時を回った。うっかり食ってしまった髪を背中に払う。
纏わり付くものが多過ぎる。呪いか何かの様に勝手を阻んでくれる。
跳ね上がった前髪の型を、少し気にした。
然し、それは悲しかったが、足を止めたり、増してや引き返して身繕いする気にはならなかった。
目の前には一組の足跡が続いている。少し大股で歩いたのだろう、癖も、靴の型も、見慣れている。
これを見失ったら、それこそ、大事も放り投げて身の振り構わず駆けて来た意味がまるで無くなるのだ。


時計の金具を留める間も惜しんだ。
ふざけているのか、と思った。次に、腹が立った。それで、驚いた事に、箍が一気に外れた。
色々複雑に出来ている、と思った。コートを引っ掛けて飛び出た。
サガに何か言ったが、恐らく要領を得ない酷い物言いをした。
ブーツを適当に留めて駆け出した頃には、もっと悲しい気持ちであったし、 思っていたより気持ちは纏まっていて、改めて、その所業の齎す所の破壊力にいっそ感動すら覚えた。
もっと言えば、人一人の行動にこうまで心情を左右される自身は発見であった。
千千に乱れていても大凡方向を纏める、その四の内第三には覚えがあった。
何度も似た様な事を繰り返している。
あの蟹男は蟹の癖に大層女には執心する性質の様で、 しかも傍目に碌でもない、大した事の無い女に酷く心を傾ける悪い癖があった。
尤も蟹男の悪い癖は枚挙に糸目がないが、特にこれは往々にして後々すっきりした解決を見ない悪癖で、 その点、煙草や偏食等の、蟹男只一人が健康を損なうだけの或る意味良質な悪癖とは蓋し類が違う。
最も良くない点は、蟹男自身が、その悪癖込みの自分という魅力を良く把握している事であった。
媚び諂い、然し、時に尊大な態度で付き侍らせ、ゾンザイに扱ってみせたかと思うとこっ酷く捨てられたり、 そんな騙し騙されの沙汰を性懲りも無く繰り返す事が蟹男の魅力の一つでもあったのだ。
(そして蟹男は、実は頭もそれなりに働く、見目の好い男でもあった)
金髪の女が随一好きであった。巻き毛で、色の白く、緑に近いような深い青の眼を好んだ。
小柄で、睫の長い、手足が人形のように儚く、 声は大概、見抜けているのかいないのか、作ったような声色をしている者が多い。 極めつけはどの女も下品な化粧をしていた。
アフロディーテは吐き捨てるように小さく舌打ちをした。
女に捨てられ(何度目の事だろう)、仕事も放り投げて遁走した。
馬鹿な男だ。蟹の癖に色気を出し過ぎなのだ。
落ち込んだ時の蟹は酷く優しくなる。と、言うより、無気力甚だしく万事全てに無関心且つ、投遣りになる。
蟹が横柄だったり乱暴だったりするのは調子の良い時で、残念な事にアフロディーテはそういう時の蟹の方が好かった。
悪い蟹の方が、口から出任せや皮肉をポンポン叩いていたり、だらしなかったり、適当な嘘を吐いたり、 兎に角一々腹立たしい態度で接してくるのだが、 そういう腹立たしさが時々とても正直な気がして、アフロディーテは悪い蟹の事がどうも憎めないのだった。
だから、こんな風に何も言わずにフラリと逃げられてしまうと、妙に心配になってしまう。 まるで女の様な傷心の主張をするのは気味が悪かった。
落ち込むのなら一人でひっそりと、気が済むまで落ち込めば良い。只、誰にも知られずに。
然し、とアフロディーテは考えた。更に、足を速めた。蟹の気配は未だ離れていない。
何を考えていたのか、判らなくなった。木立の先に蟹の車が在る。視界が徐々に空けてきたのだ。


あの女は前から気になっていた。蟹が妙に、行儀良くしている。
場末の娼婦や歌い女や踊り子や家出娘や果ては街角の売卜先生まで 好みとあれば文字通り光の速さで手を出し、首尾が良ければ調子付いて横柄に鼻歌を歌っていたりするのだが (尤も、ここから蟹の昇り調子が長いか短いかは時により様々である) 今回に限っては鼻歌より鼻毛の手入れを殊更気にしていた。
靴の踵を踏まなくなった。常に金のない筈の蟹が、仕立てを新調するのも珍しい事だった。
故郷の歌を歌わなくなった代わりに、聞き慣れない異国の歌を音程覚束なく、歌う。
ボロ車を磨いている。仕事に出るようになった。偏食が一段と激しくなり、殆ど何も口にしない。
好きだった新聞を読まなくなった。蟹は蟹の癖に社会的な出来事にも造詣が深いのが魅力だったのだ。
だらしなく煙草を吹かしながら、酒浸り且つ女狂いの頭で実に手際良く物事を整頓している。
皮肉、嘘、暴言の類と歯の浮くような甘ったるい戯言が出てくる物の凡そ大半を占めるその口から、 難しい言葉や概念、他所の国の偉そうな人の名前が、何かのついでのようにポロポロと零れ落ちる、 それは蟹男の持つ数少ない、知的な魅力だと言っても良い。と、アフロディーテは思っていた。
判らない顔をするとちょっと小馬鹿にしたような顔で、煙草を吹かす。
それで、いつも「必要の不足だ」と、言う。
その小憎たらしい表情までもが知的に見えるから実に不思議だった。
蟹は新聞を読まなくなり、代わりに食事のマナー等について書かれた本と、犬の本を読むようになった。
犬、と思った。蟹は犬が得意ではなかった。
殆ど食べなくなった蟹は、その内痩せてきた。それでも食べないので一度、叱った。特に言い返してもこなかった。
他の何もが眼に入っていない。きっと苦言も耳の穴には入れど頭にまで届かずに何処かで立ち消えている。
新聞を読まなくなった蟹の頭は、いよいよもって酒と女が回路の全てを独占さる事態に陥ったと考えて相違なかった。
首ッ丈とはこの事か。しかし、このままでは丈と言わず首そのものを持って行かれるのではないか。
蟹は痩せていく。痩せ過ぎても格好の良くない、そんな事も判らぬ男ではなかった筈だ。
そんな物の怪が居たではないか。アフロディーテはカミュを思い出した。
雪の降る所に良く出るという、男を誑かし精気を吸い取り、剰えその命をも奪うという女の怪、 カミュは別に好んで人間の精気を吸い取っては居ないだろうが、そして女でもないが、 吹雪を起こす事もあれば必要に応じてうっかり誑かしてみる事もあると聞く。
それは外から見れば十二分に雪の怪と映るのでなかろうか。と、常々思っていた。
カミュは隣に住んでいる。ならば、本当に、そのような、男に憑いて生を奪う怪が居ても不思議ではない。
思えば、この冬はやたらと雪が降る。


木立を抜ければ、一気に視界が開けた。原を覆う雪が視界を狂わす。遠近の鈍さは白く光るような雪明りの所為だった。
それで、月も星も出ていた事に気が付いた。
運転席に凭れ、俯いて手元で何かを弄っている。
煙草の火が赤く、揺らめいている。暗い車内ではそれだけが丸く、ゆっくりと立ち上っているように見えた。
蟹の表情は火に照らされてもよく見えなかった。
さっきよりも気温が下がっている。足元の雪がサラサラと崩れるので、そう思った。
吐く息の白さも此処では目立たないのかもしれない。 蟹の吐く息も白い筈だが、それも見えなかった。
いざ追いついてみると如何して良いのかが判らなくなった。
蟹を追ってきたのだ。出奔を止めようと思った。
止めて、文句の一つも言おうと思っていたのだ。蟹の遁走で年末の予定が大幅に狂った。
それと、懲りずに良くない女に引っかかる蟹の不明も、少し、叱ろうと思っていた。 然し本当はそんな事よりも先にしなければならない、重要な手順があった筈なのだ。
蟹の顔を見たついでに、それが何処か二の次、三の次、何かの裏に回りこんだ様に消えてしまった。
エンジン音がない。車内も暖めずに、蟹は、何をしているのだろう。
それで車に近付く気持ちになった。
余り静かにしているから近寄れなかったのだ。きっと今の蟹は妙に優しく、無関心に振舞うのだろう、と思った。
そして自分は落ち込んでいる蟹が好きではない。


アフロディーテは、ゆっくりと手を振った。腕時計は探り当てたポケットに入れた。
気付いて、窓ガラス越しに眼を眇める。片手を上げたが、煙草の火を消したので、そこから蟹の表情は見えなくなった。
エンジンは掛からない。アフロディーテが歩み寄っても、蟹は逃げる素振りを見せなかった。
後部座席のドアを引くと、すんなり開いた。煙草の匂いに軽く眉を顰める。
助手席は好きではなかった。其処に座ると別段欲しくもない肩書きや要らない干渉が入りそうで、それが嫌だった。
それよりギアを変えたりブレーキを踏んだり、そういう、蟹の運転を後ろから覗き込んで見ていた方が面白い。
ああ、と、蟹が言った。悪いな、と言おうとして、取り止めた。
煙草の事だったが、下手に切り出せばそこから色々言及されるに決まっている。
アフロディーテは思う事言いたい事は、割と、素直に口に出す。不躾な物言いはしないが、曖昧な言い方は好まなかった。
それを避けて、座席を少し倒した。
アフロディーテは倒れてきた座席を避けて、何かを言おうとして、それも止めた。乱れた巻き毛を指で梳いている。
すっきりしない顔でもう一度、何か言いかけ、やはり止めた。暫く口元を手で囲って息を吐いていたが、それも止めた。
居心地が悪かった。ならば、居心地が悪い、と言えば良かった。
蟹は恐らく、何も返してこないだろう。それが嫌なのだ。
蟹の肩口から首、顎、こんな明かりの乏しい車内で見ても痩せたと判る。
それで、アフロディーテは口を開いた。

後半に続く






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