井戸
此処は年度が変わっても、配置に変化もある筈がない。
彼と同じく裁判事に従事するルネも例年通り変化なく、次いで話題にも大した変化がなかった。
火を寄せた蝋が溶けるが如く、緩やかには変わっている。然しそれは本当に、酷く緩慢としたもので、 少なくとも此処で毎日を過ごす彼らが変哲を見出すことは極めて難しい。
それが、今日は少し、違った。
朝から早々排水溝の蓋が緩んでいるとか、 それでそこから色々だだ洩れているらしいとか、そんな話をルネから聞いた。
だだ洩れ、素敵ではないか。
それは辛気臭い部屋で薄汚れた書類に只管四角い判子を押すだけの、 退屈それ極まりない毎日のルーチンに颯爽と吹き込んだ爽やかな話題だった。


有意義な午前を過ごせそうな気がする。
止められるより早く走った。
ルネはズベズベとした衣服が好きで、 いつもズベズベしながら小言を言ったり仕事をしたり、 ラダマンティス隊の噂をしたりしているのだが、走るのは思いの外、速い。
ズベズベしないよう、裾を捲くって縛ってから、スプリンターよろしく駆けてくるのだ。
捲くって縛る、その手際は素早く的確であったが(日々の修練の賜物であろう)、 今日はどうしても捕まりたくなかった。頭が限界を訴えているのだ。
薄汚れた書類と四角い判子ばかり相手にする生活、 これでは脳も漫然と消耗、麻痺磨耗し終いには四角い形にしか反応を示さなくなってしまう。
丸い判子を手に取ろうにも違和感を覚えそうな視覚が空恐ろしい。 真っ白な新規書類など処理する日には目に眩し過ぎて文字の読解不具を起こしそうだ。
と、いう旨をルネに伝えながら、糸で彼の下穿きの留めを一気に引き抜いた。
制止と反論とズベズベを捲くって縛るのと、 それに加えてズリ落ちる下穿きを如何にかして留めておく方策を一挙同時に処理する事は、 さしもの敏腕・ルネと言えども無理であった。
下穿きが先か捲くって縛るのが先か、それを考える一瞬の隙を突いて、 ミーノスは遁走し、走りながら問題の場所を探す事にしたのだった。


排水溝と言っていた。
地上にある城が此処冥界への正面玄関とするなら排水溝は裏口と言うべきもので、 地上の(言うなれば、現世の)排水溝の一部が裏玄関として、この彼岸へと繋がっている。
生きている者にしてみれば只の排水溝にしか見えないのだろうが、 うっかり落ちでもすれば漏れなくこちらの世界の仲間入りを果たせる物騒な仕掛けである故、幾つもない。 と、思いきや、各地に点在していた。
正面玄関だけでは捌き切れない災厄時にはこの裏口から死者の魂が流れ込む。
災厄は思っているより、割と頻繁に起こるものであった。


それなりの頻度で出入りは起きているから、その内、何かのはずみでズレたのだろう。
只、今回はそこから色々外に流れ出ているらしく、それで、噂になったのだろう。
探索中にアイアコスに出会った。彼も、物見への途半ばであった。
「日光を浴びたい」
問題の場所を知っているらしいアイアコスは左に曲がる、と指し示しながら、 意気揚々と、然しちょっと照れたように笑った。
彼は元来健康な性質で、判ってはいても陽が恋しくて仕方の無い男であった。
それは冥界に住まう者としては滑稽な性質であったが、 生前の姿をまま彷彿とさせるような、その魂の素直さは決して不快なものではない、 と、ミーノスは思っている。
彼自身は日の光に対してあまり思い入れがなかったので、 問題の箇所は地上で今昼なのか、とか、そんな事をぼんやり考えた。
冥界では昼も夜もないので単純に時間で一日を区切っている。
悪くはないが(と、言うより他に方法もなかった)、 それもこの漫然とした生活の一因であるなあ、と彼は思う。
暗いものは当たり前のように只管暗く在るこの冥界は、そういった意味で虚も実もなく、 例えば悲嘆は何時でも悲嘆であり、虚無は何処まで行っても虚無でしかなかった。
冥界は一種奇妙な誠実さに満ちている。奇妙に誠実で、小気味の良い世界であった。
然し、暗がりが暗がりである健康、それは何の欺瞞もなく胸の空くような正直ではあったが、 蓋し代わりに此処でずっと暮らす者には果ての無い退屈を与えるように思えた。 何処にも大した歪みがないから綻びる所も正す所もないのだ。
寝坊をしてみたり、たまには左手で判子を押してみたり、 そんな工夫をしてみた所でルネに叱られるのが関の山で、 そのルネの御小言自体が、最早、靴を代えてみたり、階段を昇る第一歩を普段と反対にしてみたり、 そういった日常の小さな起伏と同程度の意味しか持たなくなってしまっている。
「ミーノス様は」で始まるか「ミーノス様はですね」で始まるか、 それくらいの違いなどトーストに苺ジャムを塗るか林檎ジャムを塗るかの差と等しい。
「ちょっとそこに直れ」くらい言ってくれたら、きっと面白いに違いないが、 然しそれを口に出せばルネは益々怒るだろう。
その反応も又(ルネには悪いが)退屈なものだった。


廃墟じみた瓦礫の城を掻い潜れば、欠けた石畳が続く小道に入る。
ミーノスにとっては別段変哲ない、見慣れた裏道であるが、 今のアイアコスにとっては何か、宝物を探すような希望めいた道なのだろう。 背中から期待が後光のように滲み出ている。と、ミーノスは思った。
アイアコスは片足現世に突っ込みながら死んでいるような男であった。
それが、この妙に安穏とした地獄から、彼をぎりぎり救命していた。
言ってみれば冥界に居ながら冥界に馴染み切れない性質を持つ故、彼は助かっている。
日の光がどうか、など思いもしなかった。
此処には元から無いものだったから、永劫、無いものだと思っていた。
アイアコスは殊更子供のような勢いで進む。
塵芥塗れの蜘蛛の巣を素手で豪快に打ち払い、朽ちて枯れ果て灰色に減色した枯葉を踏み鳴らし、 その踏んで砕けた屑が靴下に付くのも厭わず、大股で只管、狭い方へ狭い方へと突き進む。
ミーノスは妙に愉快になってきた。
アイアコスは随分景気の良い音を立てて進軍している。
払ったと言っても実際腕の届く範囲しか払えていない蜘蛛の巣が頭やら肩やら背中やらに屑々と落ちている。
その内真っ白になりそうだ、とミーノスは思った。


見えた、在った、とアイアコスが言った。後光が一段、と、思った。
然し光は後光と言うより(アイアコスはそれはもう、いい笑顔をしていたが)斜光に近く、 瓦礫を障壁にして折れるように差し込み、這うように伸びている。
ああ、と思った。此処は以前に通りがかった事がある。隙間風を感じて見上げたのだ。
寒い日で、急いでいた。
瓦礫の壁から顔だけ覗かせ、見上げ、然しよく見えなかったのでそのまま道を急いだ。些細な事だったから忘れていたのだ。
思えばその時には既に蓋がズレていたのかもしれない。
アイアコスが両手を上げて歓声を上げている。深呼吸まで始めた。
体操する腕に当たらないよう気を付けながら、ミーノスは採光の下に立ち、見上げた。
成程、高い場所から三日月型に隙間が見える。
彼は目を眇めた。此処は相当深い場所にある。地上までには酷い高さがある筈だ。
額の右上辺りがキリ、と痛んだ。痛みを感じたのも久しぶりだった。
遮蔽するように前髪の上から目庇の辺りを押さえた。
随分前にもこうやって頭痛を堪えた気がする。それが何時だったかは思い返す気にもならなかった。
酷く長い間、地底で過ごしている。本当はきっと大した強さの射光でもないのだろう。
アイアコスが腕捲くりをしようとして驚き、ばさばさと蜘蛛の巣を叩いて払った。
昔、枯井戸に落ちたことがある、と言う。大学には一度落ちたが、井戸には未だ落ちたことがない、とミーノスは思う。
思ったが別段口に出しはしなかった。同僚の足を滑らせる姿が容易に想像出来たからだ。
引っかかりなく落ちて、あちこちぶつけて、動けないくらい痛かった。と、言いながら、捲くった腕を出した。
二の腕から手首にかけて幾筋かの血管が通っている。肘を通る一筋の丁度すぐ傍に痣があった。
「思ったより広かった。だけど、地上が全然見えないくらい深かった。上の方が少しだけ明るいくらいで」
もう結構大きかったから、そんなに恐くはなかったけど、と、小さく、伏目で笑って、捲くった袖を戻した。
何があるのか気になって、覗いた。そうしたら、おっこちた。
滑らせたのではなかったのか、とミーノスは思った。ああ、でも、その方が彼らしい。
真っ暗な枯井戸を一生懸命、身を乗り出して覗き込む、小さなアイアコスの姿が脳裏に浮かぶ。
枯井戸など大して面白い訳でもなかろうに熱心に覗いたのだろう。きっと、彼には面白いものが見えたのだ。
ちょっと思い出してさ、と言い、見上げた。ミーノスも見上げる。小さな三日月形の隙間がちかちかと瞬いた。
「登れないから誰かが助けてくれるのを待ってた。ずっと、上を見ながら」


暫く見上げていれば、目も慣れて頭痛も止んだ。
アイアコスは壁に彫られた、古い、幾何学のような文字を解読している。
あまり良い意味ではないのだろう、途中から渋い顔で口を突っぱねている。
此処に明るいモニュメントなどある筈もない。それはそれで良い。ここの在り方として健全である。


アイアコスは、と思う。
その後、すぐに気付かれて、誰かに引っ張り上げてもらえたのだろうか。
それとも暫く誰にも気付かれずに、枯井戸の底で待っていたのだろうか。
下らない事を考えている。
ミーノスは長い前髪の下で、少し眉を顰めて、それで、見上げるのをやめた。
もうちょっと近くで見られたらなあ、とアイアコスが振り返って、もう一度頭上を見上げて呟いた。
まあ、跳べばかなりいい所までは行けそうな気がするけど、と、残念そうな顔をする。
幾ら跳んでも地上にまで出られる訳ではない。生殺しではないが、それは恐らく口惜しいだろう事は目に見えた。
やはり、口惜しいな、とアイアコスは呟いた。
ミーノスも何故か少しだけ、口惜しく思う。 彼自身は日の光に大した思い入れはない。然し、あまりアイアコスが口惜しそうに言うから伝染したのだ。




そこまで行って、何故塞いでこないのですか、と、ルネが憮然として言った。
そういえば、と思い出す。何かを思い出した時に、はた、と顎に手をやるのはミーノスの癖だった。
そうですね、と言うと、ルネは諦めたように再び判子をポンポン押し始めた。
然し考えてみれば、元々塞ぎに行った訳ではなかった。只の退屈凌ぎだったのだ。
手際良くポンポンやりながら、ルネが言う。書類は皆ルネの机にあったのでミーノスは御茶を呑むしか仕事がなかった。
「何が洩れていました?」
ああ、と顎に手をやると、最早見もしないルネはポンポン作業を只管無言で続けた。


だだ洩れしていたとすれば、恐らく、声だろう。
振り分け前の亡者でもフラフラしているのなら問題だったが、その気配はなかった。
アイアコスが井戸に落ちた話が洩れたと思う、と告げると、ルネはポンポンしながら髪を耳にかけ直した。 ちょっと興味を向けた合図だった。
井戸に、と言うので、井戸に、と返した。結構痛かったらしい、と継ぎ足すと、でしょうね、と返ってきた。
あの方は生前からアイアコス様なのですね、と言うが、その言い方も妙に可笑しい、とミーノスは思う。
生前から変わりない、とは此処冥界独特の表現で、言そのものに、変に住み慣れた感がどうも溢れている気がするのだ。
当たり障りなく、適当に話した。(助けを待っていた件は、もしかしたら沽券に関わるやも知れぬので、伏せておいたが)
ルネは判子を押し終えた書類を束ね、綺麗に角を揃えてミーノスの机に戻す。
此処は井戸の底ほど酷い所だとも思いませんが、と言いながら再び茶を淹れに立った。下穿きの留めはどうにかしたのだろう。
湯を注ぐ静かな音に紛れながら、その分、退屈なのかもしれませんね、アイアコス様も。と、聞こえた。
殆ど独り言のようなものだったから、相槌も打たなかった。ルネも気にしていない。
助けも来ないが居心地も悪くない、それが問題なんですよ、と、ミーノスは若干冷めた湯飲みを回しながら、一人、ごちた。


あの隙間はその内、塞がれるのだろうか、とぼんやり考えた。思い出すと、目の奥から軽い頭痛が甦る気がする。
自分は、そのままにしておいても構わないけれど、と思い、それで、それ以上考えるのを止めた。
ルネには上の空がすぐ見破られてしまうからだ。




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