デスマスクの自転車
ぬおおおお、とデスマスクが唸った。
小さな石ころがパチパチ音を立てて、何処とも知れず物凄い勢いで吹っ飛んでいる。
少し空気圧の低いタイヤが歪んでいる。いい大人を二人も乗せて、それを、この勢いだ。
その内地面に巻き込まれて盛大に転倒しそうだと思った。
俺はこの晴天下、ギリシャの白い石畳と青い海を背景に吹っ飛ぶ自分達を考えた。
デスマスクはまだまだ回し足りない様子でペダルを漕ぎ続けている。
チェーンが勢いを持て余して空回りしていた。これ以上はもう坂の勾配に任せるしかない。
海が近い。 潮風に乗ってデスマスクの部屋の匂いが後ろ向きに流れてくる。
香水は窓から投げ捨てたらしい。洗濯前のシャツなのはどうせ汗だくになるからだ。
デスマスクが立ち乗りを止めて思い切り乱暴に着座してきた。タイヤが一層歪む。撓んだ弾みに俺の尻も跳ねる。
一端止めた脚を再び猛烈に回し始めた。 チェーンは相変わらず空回りを続けている。
「何の!」
デスマスクが怒鳴る。
「役にも!」
後ろ向きに吹き飛ぶ景色にその声が乗る。
「立たねえんだ! 何の役にも!」
海に行くぞ。と、言った。正午前に、俺の部屋のドアを開けて、煙草も酒も入っていない素面の顔で、それだけをデスマスクは言った。
「アメリカの歴代大統領を言えたって! 世界中の油田の位置を覚えていたって!」
自転車は青かった。確か名前もついている。不恰好な補助席が後付されたデスマスクの自転車だ。
それに乗った。デスマスクは海に向かって一心不乱にペダルを漕ぎ出した。
「バーソロミューディアスが何処に到達したか知っていたって! ブレトンウッズ協定が世界に与えた影響を説明出来たって!」
傷心のデスマスクは海に走る。青い自転車の補助席に俺を乗せて、青い海へと向かう。
太陽はまだまだ高い。車体が大きく傾いだ。聖域から海に行く道の、一番大きなカーブだ。
慣性に負けそうになる。デスマスクが、戻れ、と言うように左のペダルを一度大きく踏み付けた。
踏み付けた体勢で遠心力の曲線に乗る。このカーブを越せばいよいよ海が眼前に迫る。
身を起こせるまでの、この時間が惜しい。デスマスクはもう視界一杯の真っ青な海を見ている。
「光の速さで地球を周走出来たって、ビルより高く跳べたって、こんなふざけた角度のカーブをほいほい回れたって」
女の一人も落とせない、と呟いた声はカモメの鳴き声に紛れてホトホト情けない様子で、カーブに消えた。
俺はおかしくなって、くっく、と声を殺して笑う。それも忽ち置いて行かれる。
デスマスクが再び立ち乗りを始めた。
「いい女だったんだ。あんないい女には出会った事がない」
「これから先に又出会うさ」
大声で言わぬと恐らくデスマスクの耳には届かない。俺は首だけ前を向かせて、風に負けぬよう、やや強めに声を出す。
同じ事を何度も聞いている。この自転車で、この海に続く坂道で、夏になる度に、デスマスクは俺を乗せて海に走る。
座り直した。あまり深く腰掛けるとデスマスクの尻でどつかれる。立ち乗りをしている時は特に注意が必要だった。
何度かそれでバランスを崩して転倒し、文字通り宙を舞った事がある。
デスマスクも俺も人より丈夫な出来をしているが、寧ろ、その丈夫さに慣れてしまって 怪我をするしないの判断加減がどうも危うい。 俺達が肘を擦りむいたり何処かに内出血を作る時は大抵衣服は無事で済まないし、自転車も大破している。
「飴細工みたいな蜂蜜色の髪で、緑がかった青の眼で、こう、手足の作りが人形のようで、又いい声で誘う…」
化粧の具合まで眼に浮かぶ。デスマスクの女の趣味は何時でも律儀に変化がない。
「幾らでもいる。女なんて。お前の好みは正直だから、きっとすぐに見つかる」
そうかな。ちくしょう。呟きながらデスマスクはペダルを大きく漕ぎ出す。
坂も終わりかけて速度が落ちてきていた。ようやくチェーンも空回りを止めて軋みながら回り出した。
「シャツが」
汗で、すげえや。
ひい、と大袈裟に呟いて、デスマスクは片手で汗を拭った。勢い良く地面を走る影が揺れる。



海に着けばデスマスクは自転車を浜辺に乗り捨てて、今日朝一で入った諸国のニュースを只管話す。
何処の国で何が起きたとか誰がどうしたとか明日のニューヨークの天気だとか、 自分に関係のある物もない物も、大きな事件も三面記事も、一切の区別なく何か教典の暗誦でもするようにトウトウと話すのだ。 そうして大抵、一刻も経てば堪えきれなくなったように男泣きに暮れ出す。
避けようと思っても避けきれぬのだ、思い出と言うものは。某かに付随してデスマスクの傷心を抉ってくれる。
ニュースを流す口をふと休め、デスマスクは茫洋と海を眺めた。
「誰も知らない、不思議の国が、波間の向こうに、あるらしい」
それは海の底と言う事だろうか。デスマスクの隣に腰掛けた俺は何となく、それも違うな、と思った。
デスマスクの茫洋とした視線は俺の見えぬ波間の奥を覗いているのだろう。
「渚の夕日に照らされて姿を現す。空蝉の、人の嘆きで出来た国だ。波砂が憐憫と涙を飲み込むから、海は青い」
社説か何かだろうか。
「街の何処を歩こうとエレジイしか聴こえない。哀切に囲まれて暮らす内に彼らは何を悲しみと呼ぶのかも忘れてしまった」
俺は、不思議の国に行きたい。うっ、と声を詰まらせてデスマスクは突然抱えた膝に突っ伏した。
突っ伏する背中、汗に濡れたシャツを軽く摘んでパタパタと背中に風を入れてやる。
俺はデスマスクの言う不思議の国を考える。人魚はいるのだろうか、とかそんな事しか思い浮かばなかった。
この話をするとな、とデスマスクが呟く。鼻水を啜った。
「私は、そんな辛気臭い場所は嫌だ、と言った。尤もだ、と思った。誰もどうして自ら辛気臭い場所を好むまい」
「湿気はどうなっているのか、少し気になった」
「湿度については考えた事はない。その内設定しようと思う」
驚いた。社説ではなく自分で考えたのか、先の話は。
もういい、とデスマスクが首を振る。影のない女だった。影のない世界を好んだ。然し俺は明るみだけに生きる事は出来ない。それが、悲しくなった。
「魂も盗む。魂の行く先を知っている。それが、俺の、還る場所だ」
「お前の暗がりはよく知っている。それを隠すに長けている事も」
「惚れていたんだ。情けねえな。惚れていたんだよ。全部知っていて欲しかった」
それで、見せちまった。そう言ってデスマスクはうっうっと泣き出した。
見せたのか。何を見せたのかは判らないが大凡想像はつく。俺はデスマスクの背中を軽く叩いた。
「俺の知る世界を知らないだけだと思った。思い込もうとした。受け入れて欲しいという甘えもあった」
それは馬鹿だ。そう言うと、デスマスクは俺にうおおおと泣きついた。



誰が相手でも格好をつけようとするその気性は、デスマスクが人と相対する時の特徴であり、基調だ。
又、特徴であり基調でありながら、同時にデスマスクの隠し持つ人情や愛情に敏感な本性を隠す性格を有している。
この性格の優性はそのままデスマスクの頑固さ見栄の強さ即ち意地太鼓の張りの良さに直結していて、 ちょっとやそっとじゃ弱みも見せぬとばかりに首尾良くデスマスクを冷徹で格好の良い体裁に仕立て上げているのだ。
太鼓を張る先の怖れが何であるのかは知らぬ。生きる上での知恵かも知れない。デスマスクは生来慧敏な男だ。
只、その慧敏と意地の影に潜むデスマスクその人の繊細な暗さに彼女が気付かなかったとすれば、それは何とも皮肉な話だ。
デスマスクはその繊細で誰かを欲し、その暗さを知って欲しいと願ったのだから。



聖闘士なんてヤクザで日陰なものなんだな。うっかり忘れそうになっちまうけど。
補助席でデスマスクが呟く。俺は脚に力を込めて、聖域への坂道を登る。
「こんな明るい所に居るからいけねえんだ! こんな海が近くにあったり、アテネにもすぐ行けるし!」
暴れるな、ペダルが重い。俺はハンドルを握る手にも力を込める。地面を走る俺達の影が少しよろけた。
「次は黒髪の女にするかな」
傷心のデスマスクと海に来ると、必ず帰り道にそれを言う。俺の髪をいじりながら言うから気色の悪い事この上ない。
「アフロディーテの話を思い出した」
「アフロディーテ?」
飴細工の髪、人形のように愛らしい顔立ちだがやや化粧に手間を掛け過ぎるきらいの同僚を思い出す。
「嘘は嘘だと判ってはじめて嘘になるのだと。あいつは俺を詐欺師か何かだと思っている…」
騙すなら騙し通せと言う事か。あれらしい意見だ。
「あいつはな、俺の不思議の国をな、冗談でないと斬って捨てた。イヤも何もない。一刀両断だ」
「目に浮かぶな」
「御伽噺に感ける余裕があるなら働け、だと。浪漫のない事を言う」
夕日に照らされて俺達の影が長く伸びている。デスマスクは海を見ている。
俺は一つ一つ力を篭めてペダルを漕ぎ出す。スポークの影がゆっくりと回る。出しっ放しにしてきたオレンジを思い出した。
坂道は長い。聖域に着く頃に、丁度日が暮れそうだと思った。






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