折れた
作業場は雑然としていた。鞘当から抜いた刃は、背景の雑然の中で一際すらりと尖っている。
柄が無かった。柄を作る必要がなかった。刀の端が持ち手になるよう細工がされている。
刀身は地平の様に反りがかっていた。長い刃渡りには一点の曇りも飾りもなく、斬る事にのみに用意されたような冷徹な仕様である。
「行きます」
刃を持ったムウは白い着物を着ていた。喪服のような白だがよく似合っている。
斬り合う前の、この刺すような空気が心地良い。
蹴った。抜き身の刀身が白く光っている。それが忽ち目の前に迫る。着物の白も、彼も表情を変えない。
ムウが足元を一蹴して、抜刀した。目の端に刃の白さがチラリと映り込む。 太刀筋が弓手から馬手に抜け、伸びる。白さが咽喉元に迫る。
踏み込んで下から上に薙ぎ払う。次を受ける前に左腕を強く打ち出す。
渡りの端で止める事など、読めている。ムウの弓手は既に刃の峰を伝っている。
飛んだ火花が焦げる音を聞いた。
「二合目!」
呟いている。彼が火花の向こうで、紛れて、笑った。見えた。
右脚が踏込んでくる。その筋の動きが手に取るように伝わる。
手首と支点は返さない。そのまま迎撃と合わせる。上腕全体に痺れが走る。この感覚は快楽にも似ている。
見えている。ムウも見えているのだろう。乗っても良い。乗らなくても良い。 俺からいこう、言うか言わずにとどめるか。上段か、其れとも中段か。
(愉快だ!)
乗る。右上段から狭角に下ろす。幅三寸の軌跡が宙を切り裂いた様な痕を残した。空気を裂く時のやや重い衝撃が腕にびり、と伝わる。 受けざるを得ないだろう。順手は逆手に、弓手は順のままで、受けざるを得ない筈だ。
ムウが踏み返した左脚の位置取りは正確だった。
重心のある腰、そこから背中、肩、腕、肘、手首、それを支える脚が正確に引いて、 負荷と腱の張り、筋、全てが釣り合う位置につ、と、移動する。静かなものだった。表情すら殆ど変えない。
斬り結ぶと、音と衝撃も火花と一緒に派手に飛んだ。ムウの静かな目元が挑発するようにきらりと瞬く。
三合目、もう一度、圧しても良い。耐えられるか見てみたい。
試すも一興だと思った。衝撃を払う腕、撃ち殺した力の放射に沿って靡く着物の袖、その動きをもう一度見るも又、良い。
二合目は白い袂が肘口まで舞った。次は、二の腕まで舞わせてやる。
一呼吸、間を取った。すうと息を吸う。それを吐く。
力の反発を利用して間合いを戻すつもりだった。ムウも判った顔をしている。切り結ばせた刃を正対させ、叩き込むように押し込む。
腕全体で叩き込む。一層白い火花が飛ぶ。判った顔をしていたムウが目を見開いた。
何が起きたのか判らなかった。
刃が左の首筋に触れた。ムウの眼は見開かれている。その頬に線が走っている。
渡りの半ばまでになった刃が、宙に打ち上げられている。それがくるくると回って落ちて滑り、物に当たって、止まった。
折れたのだ。
折れた刃を、持ち手を、ムウがそろそろと咽喉元から離す。血の気が無かった。心臓が飛び跳ねている。 少し姿勢が崩れていれば素っ首が飛んでいた。












「やばかった! 本当にやばかった!」「本当にやばかったですよ、やばかったです!」
ムウとこれほど口が揃うのは多分、これが最初で最後だと思う。
やばかった、しか出てこない。
俺の口から「やばかった」と飛び出す事も稀だが、ムウが「やばかったです」と口走る事も稀だ。
とにかく、やばかったのだ。俺はもう少しで死んでいた。危うく橋を渡りかけた。
ムウが「やばかった」を収めるように口元に左手を遣り、薄い眉を顰める。右手に持ったままの折れた刃を見た。
「まさか折れるなんて」
俺も思わなかったのだ。まさか、対聖剣仕様の刃だ。ムウの作だ。それが、折れた。
間合いを取ろうと力を込めた。ムウも判っていて、正対した。そうでないと反発を利用した間合いは取れぬのだ。
拮抗した瞬間、刀身が耐えられずに砕けた。
ムウは刀身が撓み切れずに軋む音を聞いたと言う。それで、力を引いてしまったのだと言う。
斬り込まれる方が折れて刀身がすっ飛ぶよりマシだと思った。シュラも気付いてくれると思った。
「思ったのです」
ちら、と見られても困るのだ。俺は楽しくて仕方がなかった。俺の稽古に付き合えるのはムウしかいない。
済まなかったが信頼故だ。繰り返すが、折れるとは想像だにしていなかったのだ。
引いたが間に合わなかった。刀身に亀裂が走った。それで眼を見開いたらしい。その様子は俺も見た。
それで異変があると気付いた。が、気付いた時には折れていたのだ。
折れて、ムウの頬を掠め、背後にそのまま飛んだ。
俺からの力が強かった事が幸いした。折れた刃は双方からの力に巻き込まれて 錐揉み状態で何処か予測も付かない方向に吹っ飛ぶ事は避けられた。
しかし、やばかったのは残った持ち手の方だったのだ。
いきなり前方の支えを失った俺は前のめりにつんのめった。そこに、持ち手側の刃、切っ先が有ったのだ。
予測外の事態にムウと言えども咄嗟に退けることも叶わなかった。
若干の身長差に加えて、迎撃を受けていたムウの体勢が低かった。
それなりの強撃の後、間髪を容れずに俺の二合目を受けた。左脚を思い切り横、足首を外に引いて、受けた。
俺は払い上げての一合目、その打ち返しの二合目だったから上から下ろした。
重心は低めに取っているとは言ってもムウよりは高い。そんな体勢でつんのめったのだ。
切っ先がもう少し、向かって右にずれていたら、勢い斬れたで済まなかったかもしれない。本当に首が飛んでいたかもしれない。


作業場に置かれた飾り気の無い木椅子に腰掛け、俺は首を撫でた。繋がっている。
頬に絆創膏を貼ったムウは折れた刀身を拾い、持ち手と見比べ溜息をついた。
「ショックです。酷いです。自信作だったのに。まさかシュラに折られるなんて…」
まさかシュラにも何も、今現在で聖剣を使うのは俺と紫龍だけだろう。言っておくが、俺は未だ切れ味に於いて隠居する気はさらさら無い。
しかしムウの物言いも今に始まったものでもないので、言うだけ無駄だ。
「修行が足りませんでした。造り直します」
言葉だけなら殊勝だが、ちら、と、こちらを見るのだ。
ジャミールに帰る前に声を掛けろ、と、残して俺は白羊宮裏手の作業場を後にした。
俺が悪い訳ではない。折れた責任はムウにもない。それはムウも俺も判っているのだ。
だが、修繕の手間を掛ける事には違いがないし、稽古に付き合ってもらっているのも俺だ。
食事の一回くらい付き合うのはお安い御用だ。
しかしムウの可愛くないところは、それを有体に言わない事だ。と、思う。




宮に帰るとミロが昼寝していた。
本当にこれは何が目的で毎日足繁く俺の所に来るのだろうか…理解に苦しむ。
リビングの床に転がって寝ている。
あまりに普段から転がっているので、専用の座布団を幾らか購入してやった。
やる、と言うと要らない、と言ってふくれる。
何気なく傍に置いておけば、その内に気付いて利用するかと思い、極、自然を装い、リビングの方々に置いてある。
俺の見ていない所では利用している形跡が有る。
今日も俺が宮を出る前は生身一つ、床に転がって絵を描いていたのだ。
今は数個、体の下に敷き、一つ抱えて枕にしている。
知らないと思ってよく寝ている事だ。
傍に座り、又増えてきた髪を軽く、指で梳く。これもそろそろ切ってやる時期だ。
これの寝相はそれほど悪くない筈だが、基本的にだらしない姿勢のまま寝に入る。
捲くれ上がったTシャツから背中が覗いていた。
腰の少し上、丸めた背中、整然と並んだ背骨の山と谷を撫でてやると嫌そうに体を捻った。
寝ている時のこれは何をしても怒らないので、面白い。
しかもそう簡単に起きぬ。或いは、何らかの目的で寝ているふりをしているのかもしれぬ。どちらでも良い。
ムウの修繕が終わるまでは大した稽古も出来ない。又暫くは、これの様子を観察する日々が続くだろう。


起きる前に昼食を作っておいてやる。
俺も腹が空いた。近年になく焦った分、精神的に消耗した気がする。
ミロが描いたまま散らかした紙を片付け、俺は昨日の昼食に何を作ったか思い出そうと、冷蔵庫に向かった。


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