沈める寺
アイオリアは何か誤解をしている。


山にも迷わないし、海にも沈まない。道が交わっていても、左右を取り違えたりしない。
転ぶような石ころも落ちていないし、転んでも怪我などしない。
飛び降りたくなるような崖もなければ谷もない。滝もない。鬼も出ない。
第一、恐ろしいものではない。
アイオリアは次元というものを、何か、酷く大仰なものだと思っているのだ。
説明したつもりだが、それをこの男はちっとも理解しない。私は首を左右に振った。
これ以上喋るのもつまらぬ。アイオリアに限らず人と話すのは、どうも疲れる。
私の言いたい事の果たしてどれだけが形になっているのか、考えるだけでもうんざりする。
首を振ったついでに思い事の全てが伝われば良いのに。どうして人の動作はそれが叶わぬのだろう。
何度目かの押し問答で、質問が変わった。
答えるのも億劫だが、それをしなければ私は何時まで経っても自由に出来ぬ。
腕を掴まれていた。別に振り払えば良いが、それも億劫なのでそのままにしている。
そもそも私がそうしようと思えば、肉体の拘束などまるで無意味なのだから、 どうして引っ掴まれるままにしておくのも一時の気紛れに他ならない。
不思議なのは、それを知っていて何故、アイオリアは私の腕を掴むのかということだ。




駆け込むなり私の腕を引っ掴み、名を呼んで、息を呑んでからもう一度復唱した。
一度言えば判る、と思ったがそれも言わなかった。
この男は力の加減を余り知らない。掴まれた腕が痛かったので、少しだけ眉を顰めた。
然し、力を緩めるどころかぐいぐい下に引っ張るからよく判らない。
アイオリアは私の腕を如何したいのだろうか。どうでもいいが、私は痛いのだ。
訊くより任せた方が楽で良い。引かれるがままにしていたらとうとう向かい合って鎮座する事になった。
この男は私と差し向かいで何がしたいのか。
胡坐をかきたかったがその余裕すら満足に貰えない。脚が邪魔で狭い。
勢い前屈みにされたから髪が膝や足にかかっていて、それも鬱陶しい。私は一層不自由に感じ、もう少し強く眉を顰めた。
駆け込んで来た時から思っていたが、如何してそう必死なのだ。
アイオリアは私の腕を放さない。アイオリアは必死だ。私には、その意味が、どちらも判らない。


判らないまま幾時間も経過した。
アイオリアは時折、私に注文をつける。
特に、俺の顔を見ろ、と言う。
見ているつもりだ。
ちゃんと目を開けて、と言うが、それもどうか。私は気が進まない。
腕には恐らく手形が付いた。今は手首を掴まれている。
力を込めて、床に押し付けるように押し留められている。
髪が頬にかかっていて、首を振って後ろにやろうとした。
アイオリアが又、私の名を呼ぶ。
私は、何も拒否していない。髪がうざったいだけなのだ。如何して、それが伝わらない。
徐々に蒸してきていた。日は今、何処にあるのだろう。
空気が酷く水分を孕んでいる。分量の狂った水溶き顔料を思い出す。
蝉の声が蒸し暑い堂の中で蜃気楼のように只管、正体なく反復していた。
混ざって時折聞こえる呼気はアイオリアのものだ。
私の呼気も聞こえているのだろうか。
押し問答も膠着して暫くで、時折、アイオリアが私の名を呼ぶくらいしか音がない。
私は大抵返事をしないから、すぐに蝉と蒸し暑さしか思うものがなくなる。
一度止んで、再び蝉の声が五月蝿い程になった。堂も、又少し蒸して、湿度と温度を上げる。
襟足に纏わり付くような湿った暑さは嫌いではない。 身を一杯に押し包む、夏らしい草の香りも。
アイオリアの手が汗ばんでくる感触も、それ程、嫌ではない。
私は少し息を吸って、嚥下した。いい加減に口の中が渇いている。


理不尽な扱いを受けている。だが、どれも別段、興味のないものばかりだ。
首を上げているのも疲れて少し項垂れた。
呼ばれるだろうと思った。どうして、私が何かするたびに、この男は私を呼ぶ?
やけに感情に近い所を侭音にしたような、そんな声で私を呼ぶのだ?
私は怒られるようなことも、お前を落胆させるようなことも、悲しませるようなことも、 何一つしていないではないか。
蝉が五月蝿い。首を振ればアイオリアが私の名を呼ぶ。
押さえ付けられてからどれ程経ったか判らないが、私は初めて、堪らない不自由を覚えた。


振り払おうとして、それが出来なかった。手首が軋む。
アイオリアが何か言う。放せない、と言ったのか。放せ、と返した。声が暑さで掠れている。
この手は何だ。こんな大きい手だから、優に出来ないのだ。
更に力を篭めて振り払おうとしたが無骨な指が一層手首を軋ませるだけだった。
痛い。
只、痛くされるだけなら、それはどうでも良かった。痛くされているのが億劫でない限りは。
しかしこの痛みは我慢出来ぬ。幾ら力を入れても手首が軋むだけで、自由にならない。
放せ、ともう一度言った。痛い、と言った。アイオリアは力を緩めない。
手首が折れそうな程軋んでいる。痛い。どうして伝わらない。
痛い、放せ、と繰り返した。
痛い、言えば言う程、力が篭められる。声を荒げる程、骨が酷い音を立てる。
堂に響く程の声で怒鳴った。殆ど金切り声で、それは恐らく、外から聞けば十分悲鳴に聞こえるであろう声で、痛い、と叫んだ。
それでもアイオリアは解いてくれない。骨が始終軋みだして、私は首を激しく振った。アイオリアは私を呼ばない。
何故呼ばない。
アイオリア、と叫んだ。アイオリア、そればかり、意味を失う程繰り返した。
アイオリアの指の関節が、白く浮き出ている。幾ら呼んでもアイオリアは返事をしない。




























幾らか涼しくなった。汗ばんでいた肌が少し、開放されたように感じる。
日が沈んで、堂が真っ赤に照らされて、それが大分前のことだった。
虫の声が極控え目に辺りを包んでいる。
シャカ、と呼ばれた。
私は小さく首を振る。アイオリアの大きな手は私の手首には無く、胡坐をかいた足元に置かれている。
月は低かった。開けたままの障子から月明かりが差し込み、堂の中は仄明るい。
もう一度呼ばれた。私は鼻を啜った。
アイオリアの指が、軽く組まれた。
私はずっと俯いていた。頭の上から静かに声が降って来る。
元の場所に帰れ。
そう言った。私は鼻を啜る。手首には跡がついている。折れてはいない。
アイオリアの指が解け、手が伸び、散々首を振ったおかげでザンバラに乱れた私の髪を背中に払った。
此処はずっと夏だから、早くしないと本当に置いていかれてしまう。
もう、お前の居た場所は秋になるのだから。
虫が鳴いている。随分と長い間、この声を聞いた。
寄り道せずに帰れ。又迷子になってはいけない。
何処の次元もよく似ているというから、ちょっと長居すると判らなくなってしまうかもしれない。
お前は危険でないと言うけれど、確かにお前にとっては危険でないのかもしれないけれど、 行ったきりだと皆が心配するだろう。
だから、急いで帰れ。
アイオリアの手が私の髪を梳いている。肩口から背中へと、ゆっくり指が滑る。
時折、軽く束ねるように指を曲げて引っ掛け、手元に近付けて、そのままサラサラと滑り落とす。
此処の夏は本当にずっと夏で、それが嫌ではなかった。幾度もこんな夜を過ごした。
一体何日過ごした? 十日二十日では済まない。


偶然辿り着いた場所だった。
階段を降るように下へ下へと向かった。初めに緑が目に入って、緑に埋もれているのは寺だと気付いた。
居心地の良い場所だった。それで、思わぬ長逗留になった。
アイオリアと過ごすのは悪くなかった。だが、ある時から帰還を強く促すようになった。
急いで帰れ、何度聞いただろう。五月蝿いだけで聞き流していた。妙な反発心もあった。
何時でも帰れると言って、こんな力ずくにされるまで、私はアイオリアの話を聞こうともしていなかったのだ。


此処にも元々、お前が居たんだ。
アイオリアは言う。
此処のお前もあちこち出歩くのが好きで、それで、何時しか帰ってこなくなった。
だから吃驚したんだ。お前が来た時には。帰ってきたのかと思って。
でもちょっと違うから気付いた。
此処に居たお前も、お前と同じように迷子になっているのかもしれないって判った。
俺と同じように、お前の次元の俺も、お前の帰りを待っているのかもしれない。
俺だけでなくて、もっと待っている人が居るかもしれない。
だから、急いで帰れ。
足取りを失わないうちに。
アイオリアが私の髪を梳く手を止め、軽く頭を撫でる。
これもどうでも良いと思っていたが、この感触は嫌いではなかった。
嫌でないから、されているのだ。この男はそれを知っていたのだろうか。
知っていたのなら、卑怯だ。




























来た時と一切変わりなく、寺は緑の中に埋もれていた。
それが崩れ、散るように揺れ、ぼやけて、波か緑に呑まれるように、ゆっくりと沈んだ。
上へ上へと昇る。寺が呑まれる前に一度振り返っただけで、それ以上振り返りはしなかった。
石畳が見えてくる。吹き込む風は涼しく、草の香はあまりしない。




















「アイオリアは何か誤解をしている。次元の行き来は、難しいことではないのだ」
はあ、とアイオリアは気の抜けた返事をした。胡坐をかき背中を丸め、首を傾げる。
やはりこの男には私の言う事が大抵、通じていない。
これ以上説明するのも億劫だったので、私は迷子になどなっていない、と、それだけ念を押して伝えた。
アイオリアは首を傾げながら、うん、はあ、と、これも曖昧な返事をした。
それは何だ、と言おうとして、面倒なのでやめた。まあ、良い。
説教をしたつもりはないが、アイオリアにしてみればどうだか判らない。
終わった? と、眉を軽く上げて、膝を一度叩き、立ち上がって大きく伸びた。
腰に手を当てて、反る。小気味良い音がした。
「随分長く空けてたから、どうしたかとは思ってた」
おかえり。そう言って、アイオリアは癖のない笑顔で笑った。
だから、私は迷子になどなっていない。何処のアイオリアも酷い言い草をするものだ。


「向こうにもお前が居たのだ、アイオリア」
そう言うとアイオリアは不思議な顔をした。
「私を酷くして追い出した。悪い男だ」
私は少し、大袈裟に言う。妙に照れ臭かったのだ。
このシャカと言えど人の子、面と向かっておかえり等と言われてはどうも加減が狂うのも仕方があるまい。
へえ、とアイオリアが笑った。
「向こうの俺、度胸良いな。お前相手に強く出るなんて」
全くだ。しかし、考えればその口と比べてみても大差あるまい。
思いはしたが、言わなかった。
アイオリアは一頻り向こうのアイオリアの話をせがみ、それで適当に納得して帰った。
これの思考は時折素直で助かる。




別に酷くされたから言うことを聞いた訳ではない。
あのアイオリアは、私が別のシャカだと判って尚、私を気に掛けてくれた。
それは悪い気のするものではない。


あちらの私は今何処にいるのだろうか。
次元の差はあれどつまりは私の事だから迷い子の心配はないだろう。
その内に帰るには違いない。
然し、見かけたら、さっさと帰るよう伝えておくことにする。




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