夜を越え私は旅に出る


眼裏には何も浮かんでこなかった。
少し、明るいだけだった。
開けっ放した窓辺に白い椅子を持ってきて、私は頬杖を附いている。
洗剤の香りは好きだ。
晴れの日も嫌いではない。
何より、今日はとても静かだ。
いつも五月蝿いカノンも、それより五月蝿い私の頭の中も、 今日は、凪いだように、とても静かだ。




薄く眼を開けようか迷った。
陽に照らされた白いシーツは、きっと、白を超して強い光を放っているに違いない。
灼かれるに違いないが、それを見てみたくなった。
こんな事を思うのは久しぶりなのだ。
ずっと雨ばかりだったのもあるし、 そもそも、 私は太陽があまり好きではなかった。
強過ぎる白は眼を灼くし、決して曲がらぬその光は私の全てを見透かしているようで、 嘘も虚勢も全てを見透かした上で、私をまま許容しているようで、 とにかく居心地が悪かったのだ。
いっそ詰られた方が小気味が良い。
昔から私は人の好意には敏感で、それでいて愛される事は苦手だった。




伏せるでもなく、自然に思考がこちらに引き戻された。
一際、気持ちの良い風が吹いたのだ。
下から吹き上げるような風で、カーテンは空気を孕んで大きく膨らんだ。そんな音がした。
私の前髪をゆっくりと吹き上げ、おそらくシーツも吹き上げ、そのまま東へと消えた。
一瞬の、よく澄んだ風だった。
まるで神の軌跡のようだ。
私は幼い頃に読んだ童話を思い出した。
風の神はいつも風に乗っていて、世界中を回っているのだ。
一陣の風に乗り、時には嵐に姿を変え、下界の人間達と触れて回る。
物事の機微に聡く、気紛れで、何者にも拘束されない。
どんな檻だろうと彼はするりと抜け出すことが出来て、同じ場所には二度と帰らない。
笑顔で皆に挨拶を告げて回る神なのだ、と。
人は皆、その生の内、一度は彼と会っているらしい。




白いシーツも、真昼の太陽も、私の眼を灼かなかった。
私は、きっと、小さく笑っているのだろう。
突拍子も無い考えが浮かんだのだ。
全く私らしくない。が、嫌ではない。
それほど気持ちの良い風だったのだ。
私は一度開けた眼を、もう一度伏せた。


もし、先の風がお前だったのなら。
前の生で出会った風の神よ。全てを許容する大きさと暖かさを持っていた私の友よ。
私は、今一度、お前に謝らなければならない。
叶うならば、眼に見える形を取って、触れられる確かな存在を持って、私の前に現れてはくれないか。
目の前を白いシーツが踊った。
今日はどうにも気持ちの良い風が吹く。




日が暮れに差し掛かる少し前、カノンが起きてきた。
左手に私が掛けてやったタオルケットを引っ張っている。
寝ぼけ眼で掛け布を引きずったその様は、まるで幼い頃の姿そのままで、私は思わず笑ってしまった。
いつもは意味なく不機嫌で、何かと理由を付けては私に突っ掛かって来るカノンも 寝起きではいまいち調子が出ないらしい。
特に私の態度に言及するでもなく、 ふくれて自室に向かうでもなく、何かを言いかけて、やめた。
何も、とだけ残し、一度欠伸をして、カノンはそのまま何処かへ行った。
その後姿もやはり幼い頃の面影が残っていて 私は又、小さく笑ってしまった。今度こそ、何だよ、と、不機嫌そうな声が返ってきた。




シーツを取り込みながら、私はやはり、思い出していた。
洗い上げたシーツを腕に抱え込み、顔を埋めると陽光と風の匂いがするのだ。
風の神は同じ場所には、二度と帰らない。
先の風が本当にお前だったとしたら、それも勝手な話だ、と思った。
私が此処ではない何処かへ歩めば、又、出会う事もあるのだろうか。




ミロとカミュが連れ立って来ているようだった。カノンが窓から顔だけ出して応対している。
ミロが何か言ったらしい。
別に、とカノンの無愛想な声だけが、聞こえた。






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