静かの海
兄さんはバサバサと風になびくサガの髪が嫌いだった。
いっそ男らしく短くしてしまえ、と、鋏を持って断髪を迫っていたものだ。
サガが泣きそうな顔で俺の後ろに逃げ込んで、後でお菓子、あげるから、と、工作を働く。
それをミロが耳ざとく聞きつけてずるい! と騒ぎ出すものだから、 兄さんはトマトを餌にミロを味方に付けるのだ。
アイオリア、お前はお兄ちゃんが好きだろう、と、真顔で訊かれて、俺は困った。
困って、俺はサガを見上げた。
泣きそうな顔で、しかし、サガは笑っている。
身を縮こまらせて、まだまだ小さかったろう俺の背中に隠れ、ロス、と、兄さんの名を呼んだ。
兄さんをロスと呼ぶのはサガだけだ。
その声が暖かくて、笑っているサガの顔が何だか眩しくて、俺は言葉に詰まったのだ。
嬉しかった。兄さんとサガは喧嘩しているのではなかった。
夏の日だ。
何処にでもありそうな夏の日で、或いは、何回か似たような事を繰り返していたのかもしれない。
見上げたサガは綺麗だった。
今、そこに居るサガはあの綺麗なサガよりも大人になって、幾分、老けたと思う。
俺は、それが、少しだけ憎らしい。




あんまりな暑さに意識が呼び戻された。
昔の事を思い出していた俺は、それを何処か片隅に追いやって、黒いTシャツの腕を肩まで捲くった。
西日に傾いているとは言え、充分に暑い。
浜辺の砂は焼けるようだった。ミロは裸足でいる。さっきまで波打ち際で遊んでいたのだ。
波は静かだったし他に人も居なかった。
此処は俺とミロしか知らないと思っていた。
小さな、白い浜辺だった。白い花が咲いているだけの場所だった。


夏の盛りだと言うのにサガは長袖のシャツを着ていた。
色素の薄い、柔らかそうな髪は下ろしたままで、潮風に乱されるがままにしている。
ミロが居てくれて良かった。
俺一人では、きっと如何しようもなかった。
口を開いても、何も出ない。
目を合わせても、あまり良い笑い方は出来ない。
此処でなければ良かった。こんな処で会うから要らない事まで気にかかってしまう。
サガは俺を見て、ちょっと困ったように笑って、目を逸らした。
ミロがいつもと何一つ変わらない仕草で、身を少し、ずらす。
裸足の足元で砂が流れる。それを確かめるようにミロは足の指を丸めたり伸ばしたりしている。
その真っ直ぐに浮き出たアキレス腱ばかりを見ていた俺は、ミロが俺の右手を隠すように首を傾げていることに気付いた。
右か左か忘れたが、どちらかに傾げる癖がある。普段と違う。長い髪が、俺の右手に影を作っている。
俺は気付かないふりをして、背を向けた。
そのまま波打ち際で、投げ込む。
サガに見えないように、勢いをつけて、遠くまで投げ込んだ。
気付かれたくなかった。
しかし、こんな急いたような気持ちで投げ込むのも嫌だった。兄さんへの花なのだ。
どうしてサガは此処へ来たのだろう。
今日、今、何も今、此処に来なくったって良いじゃないか。
夕暮れ空に舞った白い花は浮いたような放物線を描き、小さくなって、海に消えた。




兄さんの好きだった白い花は花屋には売っていない。
その辺りに自生している。名前は知らない。小さな可愛い花をつける。
墓も無いから、毎年この花を幾らか摘んで、それを手向けにしていた。海に投げ込む。
兄さんは海が好きだった。
山も好きだったが、海が好きだった。夏の海が好きだった。
それで毎年夏には、この浜へ俺を連れて来てくれたのだ。
墓も無ければ正確な命日も判らない兄だ。
秋に死んだ。女神を抱いて逃げて、斬られて、それでも逃げて、託し、誰にも知られる事なく、荒野で野垂れ死んだ。
それが兄さんの死の全てだ。
「英雄アイオロスの死」など大仰な美談に仕立て上げるのもちゃんちゃら可笑しい、惨めな最期だった。


戦って果てるのだと思っていた。
兄らしい死、兄が兄であった死、生きた証となる死、終焉、軌跡、戦う者の死とは、そういうものではないのか。
追撃を退けていれば、良かったのではない。
シュラを返り討ちにしていれば済んだ事でもない。
あの夜、兄さんが聖域から女神を逃がそうとした夜、その時には既に遅かった。
兄さんは既に、負けていた。
兄さんは、戦えば勝った。生身の肉体で、一つの物体が持つ全ての機能を使って戦えば、誰にも負けなかった。
それが、戦えない状態に身を置いた時点で、勝負はついていたのだ。
兄さんは判っていなかったのかもしれない。判っていて、負け試合を選んだのかもしれない。
判っていたのは、サガだったのかもしれない。判っていて、誘い込んだのかもしれない。
偶然だったのかもしれない。必然だったのかもしれない。
全部が曖昧なまま、兄さんは死んだ。
俺が悔しいのは兄の死が曖昧なものだった、という事だけだ。
もっと判り易く、雄々しく、戦死するのが似合う人だった。
そうしていれば、きっと俺は泣いていたのだと思う。墓も作ったのだと思う。


押し迫る女神降臨で沸き立った夏だった。
俺は幼かったが、とにかく大変な事が起きる事だけは、何となく判った。
兄はもっと大変そうだった。夏は駆け回り、そのまま秋に差し掛かり、そんな年だったのだ。
次の安息日こそ海に行こう、それが、俺に向けた最期の言葉となってしまった。
幼い俺は喜んで、ミロも連れて行っていい、と、訊いたのだ。
兄さんは笑った。笑って頷いた。
俺が覚えている、最後の、兄の顔だ。
そのまま、もう13年が経った。




ミロの髪はあれから更に伸びて、腰に届く程だ。
その髪で影を作って、俺の右手を隠してくれた。
サガも、俺と同じ花を持っていたからだ。
ミロがサガの肩に頭を乗せるようにして、身を寄せた。
曖昧な笑みで誤魔化しながら、サガの手首に、手を這わせる。
白い手首から、手に、ミロの指が抜ける。
久しぶり、サガ、そんな事を呟いたのが聞こえた。
ミロはサガからあの白い花を奪う気でいる。
掛かる人ではないだろう。
第一、ミロはサガを嫌ってはいない。寧ろしばしばそうやって我儘を通している筈だ。あれは年長への潜り込みに長けている。
しかし、花はサガの手とミロの指を滑り落ち、足元に落ちた。
サガが何か言いかけて、やめた。やはり困ったように微笑む。
ミロは殊更ゆっくりと笑い、髪を耳にかけ、サガは、暑くないの、と、その髪を摘んで軽く広げてみせた。
この人は髪に触れられる事を嫌う。ミロはそれを知っていて、やっている。
振り払えない人だ。どうせ又困ったように笑って、ミロの手を押し止め、やんわりと嗜めるに違いない。
それでミロは適当に謝り、何も無かったように笑うのだ。
その隙に、俺が足元に転がっている花を拾えば良い。


サガはミロの手を触れるでもなく押さえ、首を振った。困った子だ、とでも言うように微笑む。
色の薄い金色の髪が、柔らかく揺れる。
兄は、この流れるような動きが男らしくないと言っていた。


サガは、もっと、毅然としていた方が良い。何にも遠慮などせずに、堂々と構えていた方が、余程。
怒りたい時には怒れば良いし、笑いたい時には笑えば良い。好きなものは好きと言えば良い。嫌なものは嫌だと。
どうして、それが出来ないのだろうな。
鋏をしまいながら兄さんは言う。
長い髪が嫌いなんじゃないんだ。長い髪が好きなら、そう言ってくれればいいんだ。
サガは、それをしてくれない。こうやって時々鎌を掛けて思い切り動かしてみないと、満足に笑うこともないんだ。
兄さんは俺の頭を撫でながら、言った。本気で切るつもりはないよ、と、微笑み、 その次にちょっと困ったような悲しいような顔をして(この顔はサガの普段の笑顔にそっくりだった)、 何処に行ったものなのだか、と、呟いた。
その時の俺は、兄さんが何を探しているのだろうと思ったのだが、今なら判る。
兄さんが探していたものは、見つからなかった。最後まで取り戻せなかった。
それが、兄さんの死因だ。




屈んで、花を拾う。
ミロの髪が潮風に靡いた。
紛れて、一瞬、判らないように、さも何をしに来たの、とでも言いたげに、俺を見る。
一瞥、それで充分だった。ミロの本当の思惑は判っている。
しかしミロは気付いているのだろうか。この人は俺達の思惑など簡単に見抜く。
その上で掛かったふりをして、兄の好きだった花を俺に渡したのだ。
兄さんが見ていたら、何を言っただろうか。
不機嫌そうな顔をして、だからどうしてだ、と、サガを叱っただろうか。
それとも、俺とミロの耳を引っ張って、そういういやらしいやり口は一体何処で覚えて来るんだ、と、拳骨でも張っただろうか。
サガは何も言わない。俺達はそれを知っていて、こんな手を使う。


やはり困ったように笑っているのだろうと思った。
ミロがいい加減に媚を売り、それで話を逸らして、うやむやになる筈だった。
この人は判っている。俺達の児戯など見抜いている。だが、何も言わない。何時だって、困ったように微笑んでいるだけだ。
今回もそうなると思ったのだ。
呼ばれた、と、気付くまで暫く掛かった。サガが俺の名を呼んだ。
花を拾う手が止まった。そのまま、身を起こし、振り返る。
ミロの手はサガの手に触れたままだ。只、意図を無くしている。
サガの笑顔は何時でも色んな感情が混ざっている。
混ざり過ぎて、いっそ無表情に近い事に気が付いた。
本当に笑いたくて笑う時、この人はどんな顔をするのだろう。
あの時に見た、綺麗な笑顔のままなのだろうか。
アイオリア、と、もう一度、俺の名を呼び、サガは少し目を伏せた。
すまなかった、と呟き、触れていたミロの手を戻した。
そのまま何を言うでもなく背を向け、サガは浜辺から立ち去った。




砂浜に残った足跡より、振り返る時に揺れていた髪の方が焼き付いていて仕方が無い。
やはりあの髪は切った方が良いのかもしれない。
ミロは俺の隣でサガの残した白い花をいじくっている。
時々何か歌おうとするが、そんな気にもならないらしく、やはり、すぐに黙る。
俺はサガの謝罪の事を考えていた。あの謝罪は、何処に向けられたものだったのだろうか。
あの人は何回も兄に謝ったに違いない。
心の中で、教皇宮で、冥界で、或いはこの浜辺で、泣きながら謝ったに違いないのだ。
その度に、兄さんは怒ったと思う。兄さんの探していたものは、そんな所にはないのだから。


ミロが立ち上がり、波打ち際ぎりぎりまで寄って、花を投げ込んだ。上体だけで振り返る。
アイオリアは、サガの事が嫌い? 恐らく、そう言った。
宵闇も濃い。顔がよく見えない。
嫌いじゃない。だけど、少しだけ、憎い。俺はそう答えた。




あの人に関わる事がなければ、兄は今も生きていたのかもしれない。
今年の夏も、この浜に連れて来てくれたかもしれない。
俺の隣で鼻歌でも歌いながら、ミロにちょっかいを出していたかもしれない。
もっと言えば、あの人が居なければ、少なくとも兄はあんな死に方をせずに済んだ。それだけは間違いがないのだ。
だが、そんな事を言っても意味がない。


完全に日が暮れた。
浜に落ちていた最後の一輪も投げ込み、俺達も帰途についた。






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