海底を出たのはそれ程遅い時間でもなかった。
直で来る気にならなかったのだ。俺は聖域が嫌いだ。
そう言おうとして、止めた。


サガは玄関で待っていた。リビングから椅子を持ってきて待っていた。
白い椅子に腰掛け、脚を組み、何時間も無言で待っていた、のだと思う。
俺は玄関そのまま大して見たくも無いサガの顔を拝み、 しかも椅子に腰掛けてまで待っていたサガの顔を拝み、 形相とか何も無かった事にして海に帰りたい気持ちで一杯になった。
しかし背中を見せるのは危険だ。凡そ確実に、撃たれる。
この男は時々手段と目的を履き違えるばかりか、目的も手段も履き忘れて裸足のまま走り出すような処があって、 しかも見境の欠如の割りに思い切りと事後の言い訳だけは鋭いものだから、 やられる側は全く損なのだ。反省もしない。サガの思うサガは常に被害者であるからだ。




あれだけ鬱陶しい便りを寄越し、 俺の気持ちも何も無視して種々の段取りを立て、終いにはひとりでに泣き、 又便りを寄越し、破っても新たな便りを寄越し、読まなくても寄越し、読んでも寄越し、 とうとう執念は百と八つを数え、文面も見慣れた字にも飽きを催し、 つい前、百と九つ目の便りが来たのを区切りにしようと、俺は決めたのだ。
一度出向けば、このうるさい便りもしばらくは止むだろうと思った。


行く、と書いた。
殴り書いては疑われると思った。そして百と十番目の便りが来るに違いないのだ。
おそらく涙の染み付きである事は目に見えた。
精一杯、綺麗に書いた。
海底は揺れるのだ。揺れる、というより、空気がさざめく。
来たばかりの頃は歪んでいる、と思った。今はこの緩やかな漣が心地よく感じる。
精一杯綺麗に書いた字も、地上で見れば少し、愉快な形になっているかもしれん。
だが、まあ、良い。


シーホースが覗き込み、スキュラが通りがかり、セイレーンが声を掛けてきた。
説明も面倒だったので無視を決め込んだら 事もあろうに全員を呼び出した。笛で集まるとは鼠か何かかと思った。
クラーケンが一体何を思い出しているのかうっとりしている。余り知りたくなかったのでこれも無視した。
正直気色悪い。見ればリュムナデスが変化を見せている。あの赤毛は…。
クリュサオルも気色悪そうに二人を見ている。
悪いよな、と言おうと思った。その隙を突かれた。セイレーンが書きかけの便りを掠め取ったのだ。
しかしそれも又隙だった。俺は光の速さでセイレーンの笛を掠め取った。
あ、とセイレーンが睨む。
返して欲しくばそれを先に返せ、と、俺は笑った。音速と光速ではどちらが速いか自明だろう。
お前がそれを読み上げるより速く、俺はこの笛を折る。
両端を持ち上げ力を込めるふりをすると、セイレーンは本気で怒った。
俺は笑った。笛を投げて返した。
別に見られて困るようなものではない。読んでみるが良い、と促す。
セイレーンは笛を大事に抱えつつ、読んだ。
そこには「行く」としか書いてないのだ。宛名すらまだ記入していない。
お前達が思っているような甘い恋文でもなければ、海皇宛の辞職願いでもない。
だから全く何でもないのだ。がっかりしただろう。
そう言おうとした俺は耳を疑った。笑ったままの顎が止まった。
セイレーンが読み上げたのは何処ぞの恋愛文庫に出てきそうな愛の囁きだったのだ。


愛しい貴方よ 麗しい俺の女神よ 貴方宛に歌を捧げる 旅先で聞いた愛の歌を
君よ
我が想い 我が全て
君が 心第一の喜び
永久に君を愛す


セイレーンが小気味良さそうに唇を持ち上げてみせたのがチラリと見えた。
あの悪魔は即興で恋文を読み上げてみせたのだ…! まるで俺が書いたようにみせかけて。
まあ素敵、と何時の間にか来ていたマーメイドが頬に手を当てた。
思わず、違う、俺ではない、と弁明を始めてしまった俺も、おそらく、マーメイドに負けず赤くなっていたに違いない。
何が俺の女神か。俺は女神などと高望みは一切しないのだ。
近場にいる可愛いものを愛でる方が余程、率も割りも良いのだ。寧ろ俺の女神はお前だ、マーメイド!
マーメイドの誤解を解くのが先か、セイレーンを止めるのが先か。
迷うより動いた。焦っていたから、舌も脚も少々縺れたが気にしていられない。
弁明をしながらセイレーンに掛かった俺は光速と音速の差とか、もう、そんな余裕はなかった。
スキュラが笑う。シーホースも笑っている。お前ら後で見ておけ! 俺は覚えているぞ。
このカノンのよく見える眼、恨みは決して忘れん記憶を甘く見るな。
俺のよく見える眼は視界端もよく映した。
クラーケンが何処かの世界でやたら呼吸を乱しているが、これは見ない方が良かったな、と思った。


奪い返した手紙はそのまま送った。皺が寄っていたが、もう書き直す気にもならなかった。
奴らの目の前で、「行く」とだけ書いた便りに「サガ」と宛を付けて、出した。
これで良い。
翌日、「待っている」とだけ書かれた百と十番目の便りが届いた。涙の染み付きだった。
少しだけ、俺は溜息を付いた。サガは筆まめであった。




海底は、いつもこうだ。
俺は岬から海を見た。青く寄せる。引く。月が二つ覗く。
海底から見える月も二つだ。水面に映る薄い月と、弱く揺れる、天上の月と。
13年、見た月だ。
真っ直ぐサガの処へ、聖域へ向かう気にならなかった。
俺は岬の先に腰掛ける。浅く腰掛けたから脚が少し余った。
膝を深く曲げて、爪先を岩肌にかける。背を丸めて膝を軽く抱えた。
ほんの少し、押されれば海に真逆様だろう。しかしそのまま下へ落ちても海は俺を拒まない。
カツン、と小石が落ち、水面に弾かれるを待たずに忽ち見えなくなった。
岬は明る過ぎる、と思った。月がそのまま照らすからだ。
空気がさざめかない。青くない。地上は硬質だ。天上の星も光が強過ぎて、刺さる。
目を細めた。俺は、今更、地上に戻れない。
サガは寄越した。聖域に来い、と、何度も寄越した。
百と九つ、寄越した。来いと言わなかったのは一つだけだ。
俺とサガは違うのだ。
外観はまるで生き写しでも、 例えこのカノンの本当の心根も、定められた星の巡りですらも同じ物を持っていたとしても、 俺と、サガは違うのだ。
サガは聖域を愛す。
しかし、俺は聖域が好きではない。
この体内に流れる血は双子の星そのものであるが、 この心は海に在るのだ。
分離しそうなのはお前だけではないのだ、サガよ。




「聖域が嫌い」と言えば、サガは悲しい顔をする。昔からそうだ。
あれは自分の好きなものを俺が拒絶すると、ひどく悲しむ。
だから何も言わなかった。
ただ道草を食って遅れたことにした。サガは怒るがまあ、それで良い。
背中を向けたら、撃たれるだろう。
あれだけ来いと言っておいて、来た途端に迎撃するのも厭わないのがサガだ。
俺の事情や気持ちなどは二の次なのだ。いつも。だが、それもまあ、良い。
サガは、お帰り、とだけ言った。思いの外、静かな声だった。
俺は返事をせずに頷いて返した。
お帰りと言われても帰った気が正直、まるでしないのだ。
しかし言われて悪い気分ではなかったから頷くだけ頷いた。
サガはそのまま立ち上がり、椅子を片付けにリビングに向かった。
白い椅子が二つ、ある。
迎撃はされなかった。しかし、殴られるより二つの椅子は気まずかった。
サガがもう一度、ポツリと言った。
俺は椅子から目を逸らし、今度は口に出して返した。


帰る場所とは何なのだ。俺の居場所は海底である。
しかし、それを言ってもサガは納得しないだろう。いくら言っても、聞かずに待つだろう。
今生きる場所が、俺の帰る場所だ。俺はそう思っている。
来なければ良かったかな、俺は、少しだけ、そう思った。






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