ドロップインサイダー
其処の浜辺で待ち合わせになっていた。
蟹が見たいと言い出したのは奴の方だ。


蟹、私は蟹が見たい。蟹は海に行けば居るのだろう。
然し、私は本物の、動いている、蟹を見た事が無い。蟹は蟹、君しか知らん。
蟹よ、私は君と言う蟹は君しか知らないから、街でも何処でも君という蟹は見分けが付く。
ところが、私は海に居る本物の蟹は見た事が無いから、見分ける自信が無いのだ。
例えば私の前を蟹が横切ったとて、どうして其れが蟹と見落とすかもしれん。
昔御本で読んでもらった蟹は浜辺を走っていた。横にだ。
君は浜に限らず走るのだろうが、常、浜に居る訳でもない。横滑りばかりしている訳でもない。
色々滑ってはいる気もするが、それは横に限った滑りではない。
第一に、蟹よ、君は前にも進めるからな。私は知っているぞ。君は意外と速いだろう。脚が。
前に進むに速い事は知っている。横は知らん。今度是非やってみてくれ。
君の脚はそれなりに長いからな。ピッチに有利だろう。私は、それはとても好いと思うのだ。
話が逸れたが、とにかく、本物の蟹は浜辺を横に走るのだろう。
きっと可愛いだろう。私はそう思う。可愛いに違いない。
私は可愛い蟹を見てみたいのだ。期待が膨らむのだ。


この胸一杯に、と真っ平らな胸板を撫で下ろし、奴は蟹、と溜息を付いてみせた。
この蟹は海辺の蟹か。それとも俺を指した蟹か。最早聞き分けが付かん。
君は蟹を知っているか、と尋ねてきたので、俺は無視した。
蟹は可愛いか、と尋ねてきたが、これも無視した。
私は、蟹は、可愛いと思う。と言ってきたので、さっき聞いた、と返した。
蟹は可愛い蟹を見たくないのか、と言ってきたので、別に可愛くねえし、特に見たくねえ、と返した。
それが良くなかった。


蟹案内を頼まれるとはどういう了見なのだ。
俺はぼんやり考えた。
俺は蟹を知っている。
しかし本当の所、動いて走っている蟹はまじまじと見た事がない。
死んだ蟹は知っているが、生の有る蟹は詳しく知らん。
食ったら旨い事は知っていても、蟹が何を食ってあの味になるのかは知らんのだ。
蟹は取り立てて可愛い外観をしている気はしない。
然しそれは静止した画で見たからであって、ひょっとしたら、可愛い動きをするのかもしれない。
そうは思っても面倒臭さに変わりは無かった。
蟹が可愛い動きをしようがするまいが、蟹に違いは無いし食えば旨い事にも差が出ない。
蟹と名の付くそれが前方に疾走したとて、それが蟹と名の付くカテゴリにある限り、恐らく蟹なのだ。
食えばきっと蟹の味がする。
俺にとってそれが最も大事な点であって、他はどうでも良かった。
蟹が桃色をしていようとも軟体であろうとも、蟹と呼ばれる限りはそういう蟹なのだろう。
それをどうこうして確かめようとするのは無駄としか思えない。
然しアフロディーテはそうは思わないようだった。
小一時間かけて被る麦わら帽子を選び、念入りに化粧をして、カメラは何処だったかと部屋中を引っ掻き回している。
いい加減待ちくたびれたので、先に行くと告げた。
このまま何処かへトンズラをこいても構わなかったが、後々面倒な事になりそうなので
大人しく案内を頼まれてやる事にした。俺は大人だ。


カミュはアフロディーテ以上に無駄の多い奴で、一緒に居ると手際の悪さにどうも苛々する。
挟まれてはこっちが磨り減ると思い、素通りした。
通りすがらにシュラを誘ってみたが結膜炎が酷いとか適当な理由で断られた。
横からミロが首を出して、俺は口角炎、と、どうでもいい事を言ってきたので、 そういう癌を見たことがある、と脅しておいた。
アイオロスはいない。此処を通る度にアイオロスを探してみるのだが、見えない。
大抵の奴は、居れば、見える。だがアイオロスだけはボンヤリともしない。此処にはいないのだ。
天蠍宮を過ぎ、天秤宮も過ぎる。シャカは寝ていた。
アイオリアも居ない。アイオリアは昼間居ない事が多い。
自室に寄って腕時計だけ持った。
サガは手紙を書いていた。カノン宛だろう。封書をどうやって海底まで届けているのか、甚だ疑問だ。
アルデバランはアイオリアと出掛けました、と白羊宮でムウに言われた。
ムウは聖域に居る事があまりない。久々に見たが、別に話す事もなかった。ムウも無いだろう。








海はギラギラとしていた。磯の香りが幾分、強い。いよいよ夏がやってくる。
太陽は中天を過ぎて尚、浜を赤く焦がす。ウミネコが鳴いている。ギラリと遥か高い空を横切る。
耳鳴りがした。蝉の様なそれを意識すると辺りはそればかり大きく聞こえた。
アフロディーテが弱音を吐く。
蟹は何処にいるのだ、と砂を指で掻き回す。サラサラと零れる砂を掬っては零し、又掬う。
暑い。蟹よ。私は暑い。蟹もこんなに暑くては避暑に出掛けてしまうのだろうか。
それとも海に帰ったのかもしれん、と細々呟き、それきりアフロディーテは黙った。
疲れたのか、不貞腐れたのか、落ち込んだのか、恐らくどれかだろう。
俺はとうにやる気を無くしていたので、今更蟹とかどうでも良かった。
それ以前に、一瞬でもやる気を出して探してやった俺は本当に偉いと思う。


蟹はいなかった。
半日探してもいないという事は、今時期の蟹は浜に生息を得ないのかもしれん。
そうは思っても口に出しはしなかった。言えば、この半日が無駄になってしまう。
日に焼けた腕を引っ掻くと砂と塩が爪に付く。
しょっぱい。帰って風呂に入る。と、アフロディーテが呟いた。
君はどうする、と訊かれた。どうするもこうするもない。
呆れて首を振った。少しおいて、小さな声で、すまなかった、と、謝ってきた。
謝るくらいなら訊くな、と言うと、もっと小さな声で、ああ、と返ってきた。
こういうのは苛々する。
どうして、お前がしょげなければならないのだ。
俺は無駄手間が嫌いだ。しかし、蟹探しが無駄手間に終わった事に、苛付いている訳ではない。
蟹が見つかろうと見つからまいと、そんな事はどうでも良いのだ。探す、という手間の面倒臭さには変わりないのだから。
それよりも手間に掛けた時間を無駄にしない事が、俺にとって大事だ。
今、過ぎ去った俺の時間、それは同僚のショゲ顔を見る為に費やした訳ではないのだ。
アフロディーテはそれを判っていない。


帰るぞ、と促した。
砂まみれになった腕時計の針は、じきに夕刻を回ろうとしている。
アフロディーテは遠く俺の後ろを付いてくる。
そういう態度がだな、俺の気を悪くさせるのだ。
私は怒っている者の側には近寄りたくない、などと抜かしてきたので 俺は不貞腐れている奴には近寄りたくねえな、と返してやった。
アフロディーテの影が長く伸びていたので、わざと丁寧に踏ん付けてやりながら帰った。




蟹御膳をやるらしい、と、シュラが言った。左目に眼帯をしている。
結膜炎如き何でもない、と豪語しているが、それはそれでどんなものだ、と思った。
俺との友情<蟹御膳か。しかしそれは仕方が無い。蟹が旨いのは蟹座である俺の数少ない誇りだ。
カミュがワインを抱えながら貴方もどうか、と言う。
あの仏頂面が愛想良く微笑んでいる事に、まず、俺は驚いた。
今日聖域に在する者は皆、白羊宮に集合しているらしい。
先程、ミロが蟹、蟹、と言いながら駆け下りて行ったので、 とうとう宮も数えられなくなったかと思っていたが、これで合点が行った。


白羊宮は既に宴会場になっていた。
蟹御膳というか、鍋か。この季節に、鍋か。
疑ったが蟹鍋は蟹鍋で旨いので別に良い。
それより蟹鍋にワインを持って来るカミュをなんとかしたい。
アルデバランとアイオリアが、と、小鉢を回しながらムウが言う。
買ってきたぞー、と、日に焼けた腕が4本上がった。
アルデバランとアイオリアは見る限り、既に出来上がっている。
一日中市場を巡って良い蟹を選んできたらしい。
アフロディーテが蟹の脚をつついている。
俺に気付くと、蟹、こっちだこっち、と、上機嫌で自分の横を叩いて示した。
お前、それはどうだ、と思ったが言わないでおいた。
旨いものは気分良く食べた方が良い。
片手を上げて返事をすると、アフロディーテは早く来い、なくなるぞ、と再び横の席を叩いた。

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